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塚田茂 : ミニ英和和英辞書
塚田茂[つかだ しげる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つか]
 【名詞】 1. mound 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

塚田茂 : ウィキペディア日本語版
塚田茂[つかだ しげる]
塚田 茂(つかだ しげる、1926年3月9日 - 2008年5月13日)は、日本演出家放送作家構成作家作詞家タレント東京府東京市(現・東京都特別区)出身。血液型:B。
== 経歴・人物 ==
1945年東宝に入社、帝国劇場に所属。その後、日本劇場演劇部で舞台演出家として活躍。
1955年、「ガラクタ狂想曲」(NHK)で、放送作家としてテレビ界に進出。以後、「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)、「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)、「8時だョ!全員集合」(TBS)、「お笑いオンステージ」(NHK)など、日本のテレビ番組史上に残る数多くの名番組の立ち上げに参加。年末恒例の「NHK紅白歌合戦」の構成にもテレビ中継が初めて行われた第4回(1953年)に会場であった日劇の舞台係として番組に参加したのを皮切りに、第16回(1965年)から第37回(1986年)まで(但し、1977年・第28回紅白の構成・演出方法につき、当時の紅白プロデューサー・増子正利と意見が対立したことから、1980年・第31回紅白までの3回については制作に参加していない)番組の主要ブレーンとして参加した。
1970年代初頭に放送作家の養成を目的として「スタッフ東京」を設立し、高田文夫玉井貴代志松岡孝らを育成した(1980年代以降は、高田・玉井ら「スタッフ東京」の有望な若手作家陣に現場での大半の構成を任せ、自らは総合監修的立場で弟子の考案した構成・演出方針に最終的な修正・決定を下すという役割で番組製作に関わっていた)。
:塚田は自身が担当する番組の企画会議の席上に必ずといっていいほど高田や玉井ら有望な弟子を帯同させ、そこで自身が述べたことをメモに書きとめさせ、それを元に自身で台本を作り上げるように指示するなど、厳しく弟子たちを指導・教育した。その甲斐もあって、1970年代の終盤に入った頃には、これらの弟子たちは塚田からの全幅の信頼を寄せられる存在となり、「夜ヒット」など主要担当番組にも塚田は自身の代わりに現場の指揮に当たらせるようになった。これらの経験を糧として、1980年代に入って早々には高田は「オレたちひょうきん族」など、玉井は「なるほど!ザ・ワールド」などの構成で、30代前半にして、早くも人気放送作家の仲間入りを果たすこととなった。
また、放送作家のみならずタレントとしても活動。1970年代前半の夜ヒットには「元祖出たがり構成作家」を標榜して「歌謡ドラマ」などのコーナーにコメディリリーフ扱いで頻繁に顔を出しており、男性司会者が休暇を取って番組に穴を開けるときには代打司会者として芳村真理とのペアで司会を行ったことも何度かある。夜ヒット司会で盟友でもある前田武彦により、同番組で「ドンドンクジラ」というニックネームが付けられた。この頃にはポリドールから歌手として、コミックソング「涙になりました」のリリースも行っている。
1990年代初頭にテレビ番組の製作の一線からは引退。「横浜・八景島シーパラダイス」などの各地のレジャー施設・行事におけるイベントの企画・構成に活躍の場を移していた。
2008年5月13日脳梗塞(こうそく)のため東京都内の病院で死去した。82歳。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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