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ヴァルラーム・シャラーモフ : ミニ英和和英辞書
ヴァルラーム・シャラーモフ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヴァルラーム・シャラーモフ : ウィキペディア日本語版
ヴァルラーム・シャラーモフ[ちょうおん]
ヴァルラーム・チホノヴィチ・シャラーモフ(〔ラテン文字転写: Varlam Tikhonovich Shalamov〕, 1907年6月18日〔露暦1907年6月5日〕~1982年1月18日)は、ソビエト連邦時代の作家である。代表作の連作短編「コルィマ物語」以外に、短編集「反小説ヴィシェラ」、自伝的中篇「第4のヴォログダ」などが知られている。
== 経歴 ==
1907年6月18日(旧暦6月5日)、ロシア北西部のヴォログダ州の州都ヴォログダ市で生まれた
〔V.シャラーモフ「極北 コルィマ物語」朝日新聞社、1998年、ISBN 4-02-257351-1、p.309.〕。
もともとシャラーモフ家は、コトラス近郊のベリーキイ・ウスチュークで何代も続いた聖職者の家系である。父チーホンも聖職者で、当時は、アラスカでの布教活動の任を解かれて、ヴォログダ市のソフィア大聖堂の司祭を務めていた。2人の兄と2人の姉がおり、ヴァルラームは5人兄弟の末っ子である。
1917年ロシア革命は家族に深刻な影響をもたらした。革命のおかげで聖職者の地位は地に落ち、1925年以降は徹底的な宗教弾圧が行われた。
この影響で、赤軍将校だった長兄は父親に絶縁状を叩きつける挙に出た。
また、赤軍兵だった次兄は戦死した。2人の姉は不幸な結婚をし、母親は心臓を患って長く病床にあり、父のチーホンは失明した。シャラーモフの父母は後に貧困の中で亡くなる〔V.シャラーモフ「極北 コルィマ物語」p.313.〕。
成績優秀な息子だったシャラーモフは1923年に義務教育を終え、両親の期待を背負って大学へ進もうとしたが、聖職者の息子であるとの理由で、大学入学資格を得ることができなかった。
そこで、ヴォログダを離れてモスクワに住む叔母の家に住みながら皮革工場で働き、資金を貯めつつ受験勉強に励み、
1926年モスクワ大学の法学部に入学した〔V.シャラーモフ「極北 コルィマ物語」p.310.〕。
在学中、学生中心の反政府デモや集会に何度か参加したが、1929年2月19日、「レーニンの遺言」(正式には「第十二回党大会への手紙」と言う)を印刷するために地下印刷所へ出かけたところを待ち伏せされて逮捕された。これを皮切りに生涯に4度逮捕されることになる。
逮捕・投獄されたあと「トロイカ(3人裁判)」(簡易な欠席裁判のこと)で有罪判決を下され、ヴィシェラ収容所(ウラル山脈のふもとペルミ市の北にあるラーゲリ)へ送られた〔V.シャラーモフ「極北 コルィマ物語」pp.309-310.〕。1931年にこの収容所の近郊ベレズニキにある製紙コンビナートの建設で強制労働させられたあと、翌1932年に釈放されてモスクワに戻った。
その後、雑誌記者をしながら創作活動にいそしみ、後にガリーナ(「文盲一掃(識字)運動」の指導者の1人グッジの娘)と結婚し、
娘をもうけた。
1937年1月12日、前科があるという理由で2度目の逮捕、簡易裁判をうけ「反革命トロツキスト活動」(KRTD
)の罪状を下された。「コルィマ物語」の中の「技師キブレーエフ伝」によれば、大粛清の最盛期の直前に逮捕されたため、まだ取調べに拷問は導入されておらず、したがって尋問で暴力を受けることはなかった〔V.シャラーモフ「極北 コルィマ物語」p.258.〕。
反革命の罪名からわかるように、いわゆる「58条組」〔反革命罪を規定した旧ソ連刑法第58条違反者の通称〕の烙印を押され、更に罪名にトロツキストと入っていることから、特に過酷な刑を受けることになった。
5年間のコルィマ送りを宣告され、シベリア鉄道を経由して警備列車で45日かけてウラジオストクの中継監獄まで移送された後、1937年8月に船でマガダンの中継監獄に着いた。更に、不起訴処分のため刑期延長は免れたたものの、翌1938年12月には3度目の逮捕を経験した。
12月から翌1939年4月まではマガダンの中継監獄に収容されていた〔この時の様子は、「コルィマ物語」の「チフス検疫」に利用されている。〕が、この後、奥地の炭鉱(チョールノエ・オーゼロ、
アルカガーラ、カディクチャン〔地名に関しては、V.シャラーモフ「極北 コルィマ物語」(朝日新聞社、1998年、ISBN 4-02-257351-1)p.302のマガダン周辺地図を参照のこと。〕)や「スターリンのダッハウ」と呼ばれたジェールガラの懲罰監獄で強制労働させられた
〔V.シャラーモフ「極北 コルィマ物語」pp.313-314/〕。5年の刑期は1942年12月で満了したが、「戦争終結まで釈放を延期」との常套句で釈放を認められず、その後も、ネクシカンやジェールガラで「一般労働」とよばれる肉体労働をさせられた〔V.シャラーモフ「極北 コルィマ物語」p.314.〕。
1943年5月には密告によって4度目の逮捕、10年の刑を追加された。
この時の罪状は、「ヒトラーを誉め讃え、ブーニンを古典とする敵」というものだった〔イヴァン・ブーニンはロシア人亡命作家。ロシア人としては初のノーベル文学賞受賞作家である。〕。またしても、ヤーゴドノエ、ベリーチャ、スパコイヌイ、
クリューテ・アルマーズヌイ、ジェールガラ、ススマンを転々としながら「一般労働」に従事させられた。
1946年になって、病院で知り合いになった医師の助けで補助医師の講習を受けその資格を手に入れたことで、
ようやく肉体労働から解放され、マガダンの左岸地区にある中央病院に内勤の職を得た。
このときのエピソードは「コルィマ物語」の中の「ドミノ」に利用されている。
1953年スターリンが死去し、続々と囚人が解放され、シャラーモフもまた釈放された。
釈放後は、オイミャコンヤクーツクを経由して、汽車でイルクーツクを南回りでモスクワに戻ったが、
「元囚人」であるためモスクワには住めず、カリーニン州(現トヴェリ州)の泥炭採掘場で働きながら短編を書いた。1956年フルシチョフが大量の恩赦を出し、
その時にシャラーモフも名誉回復されて、モスクワに戻ることが出来るようになった。
1957年には雑誌「モスクワ」編集部に職を得て、この後再び詩作を始めるようになった。
連作短編「コルィマ物語」は長年に渡って書き綴られたものの公に出版されることはなかったため、シャラーモフは詩人として知られるようになった。1960年代に聴覚を、1970年代後半には視力を失い、1982年1月18日未明、収容先の施設で生涯を閉じた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヴァルラーム・シャラーモフ」の詳細全文を読む




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