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ヴァハン・テリアン : ウィキペディア日本語版
ヴァハン・テリアン

ヴァハン・テリアン(, 〈ヴァアン・テリヤン〉1885年2月9日 - 1920年1月7日)、本名ヴァハン・テル=グリゴリアン(, 〈ヴァアン・スキアソヴィチ・テル=グリゴリャン〉)は、アルメニア人の詩人、翻訳家。
== 生涯 ==
1885年2月9日ユリウス暦1月28日)、ロシア帝国アハルカラキ郡 (ru) ガンジャ (ka) で、アルメニア人の聖職者の家庭に生まれた。地元の学校からチフリスのギムナジウムを経て、1899年8月にモスクワのへ入学した〔。在学中から、友人たちと手書きの新聞を発行し、テリアンはその論説と詩のコーナーを担当していた〔。そしてこの頃から、詩人のとも親交を持つようになった〔。同時期の1905年ロシア第一革命を目の当たりにしたことにより、テリアンは労働運動社会民主主義への共感を強くしていった〔。
1906年5月にラザレフ学院を卒業すると、しばらくの間公証人役場に勤めたがほどなく退職し、同年8月にモスクワ大学歴史文献学部 (ru) ロシア語・ロシア文学科へ入学した〔。この間にも詩作を重ね、1908年夏にチフリスで最初の詩集『黄昏の夢』(hy) が出版されるや、テリアンの名は瞬く間に知れ渡った〔。1910年には、大学での研究の傍ら文芸・芸術年鑑『春』 を編集・発行し、同時期にはオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の翻訳も行った〔。翌1911年2月、テリアンはモスクワでスサンナ・パハロヴァ () と結婚した〔。1912年には、アルトゥル・シュニッツラーの小説『』や、ワレリー・ブリューソフのいくつかの詩を翻訳し、テリアンの詩集はモスクワでも出版されるようになった〔。だが、この頃のテリアンは金銭的には困窮した〔。
1913年10月、テリアンはモスクワ大学からサンクトペテルブルク大学東方言語学部 (ru) へ移り、ニコライ・マルに師事した〔。テリアンは詩作や翻訳、文芸誌の編集を続けたが、1917年結核の診断を受け、療養のためスフミのサナトリウムへ入った。この年と前年には妻が女児を出産したが、いずれも死産か夭逝であった〔。
十月革命ペトログラードで勃発すると、テリアンはボリシェヴィキステパン・シャウミャンから、新たなソビエト・ロシア政府でのポスト就任を打診された〔。そして1917年12月、テリアンはの副官として、民族問題人民委員部アルメニア人部門の委員に就任した〔。翌1918年ブレスト=リトフスク条約締結交渉においても、テリアンはロシア側顧問として交渉に参加している〔。6月には、アヴァネソフとともにアルメニア人向けのロシア政府機関紙の発行を開始した〔。また、アルメニア人虐殺を逃れた避難民を援助するため、医療チームを引き連れて北カフカースヴォルガ地域へ赴いたりもした〔。
同年秋からテリアンの結核は悪化し、モスクワのサナトリウムへと入ったが、アルメニア第一共和国ダシュナク党政府から派遣された医師による治療は拒否した〔。この時期、テリアンは人民委員部の部下であったアナヒト・シャヒンジャニアン () との間に女児を儲けている〔。1919年秋、テリアンは療養のためサマーラへ、次いでオレンブルクへと移り、このオレンブルクへの列車内で最後の詩を書いた〔。そして、テリアンはそのまま回復することなく、1920年1月7日にオレンブルクで死去した〔。
遺体はオレンブルクの墓地に葬られたが、正確な墓所はいつしか分からなくなり、1964年に娘の手によって、墓地の土のみがエレヴァンのへ改葬された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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