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ヨハン・ネポムク・ダーヴィト : ミニ英和和英辞書
ヨハン・ネポムク・ダーヴィト[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨハン・ネポムク・ダーヴィト ( リダイレクト:ヨハン・ネポムク・ダーフィト ) : ウィキペディア日本語版
ヨハン・ネポムク・ダーフィト[ちょうおん]

ヨハン・ネポムク・ダーフィト(Johann Nepomuk David、1895年11月30日 - 1977年12月22日)は、オーストリア作曲家
== 経歴 ==
エフェルディング出身。幼時から聖歌隊に在籍し、その後小学校教師となった〔Bernhard A. Kohl: Artikel „David, Johann Nepomuk“, in: MGG, Zweite neubearbeitete Ausgabe, Personenteil Bd. 5, Sp. 491ff.〕。そのかたわら1921年から翌年にかけて、ウィーン大学ウィーン音楽院ヨーゼフ・マルクスグイド・アドラーに師事し、さらにヨーゼフ・マティアス・ハウアーアルノルト・シェーンベルクに個人的に学んだ。1926年にバッハ合唱団を結成し、1930年からはヴェルスの教会オルガニストを務めた。
1934年からライプツィヒ音楽院音楽理論作曲を教え、また合唱指揮を行い、1942年には院長代理に就任した。政治に無関心だったのでナチス・ドイツ時代には器楽曲が作曲の中心となった。1943年からライプツィヒが空爆におけるようになると、ザクセン州クリミッチャウに疎開し、1944年8月まで学院の活動を継続した。また同月にアドルフ・ヒトラーの「天才名簿(„Gottbegnadeten-Liste")」に掲載され、戦時動員から解放されている〔Zitat bei Bernhard A. Kohl: „Johann Nepomuk David in Leipzig - eine Dokumentation“, in: ''Mitteilungen 4 der Internationalen J.-N.-David-Gesellschaft'', Stuttgart 1983, S. 8.〕。
戦後は1945年から1947年までザルツブルク・モーツァルテウム大学で作曲の教授や合唱指揮者を務めた後、1948年シュトゥットガルト音楽演劇大学の理論と対位法の教授となり、1963年まで在任した。その間、フランツ・リスト賞やオーストリア国家賞を受賞している。
教え子にはヘルムート・エーダーヘルムート・ラッヘンマンなどがいる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヨハン・ネポムク・ダーフィト」の詳細全文を読む




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