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さねとうあきら : ミニ英和和英辞書
さねとうあきら
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


さねとうあきら : ウィキペディア日本語版
さねとうあきら
さねとう あきら(本名・実藤述 1935年1月16日 -2016年3月7日 )は日本児童文学作家劇作家埼玉県狭山市在住。1972年に『地べったこさま』で日本児童文学者協会新人賞野間児童文芸推奨作品賞1979年に『ジャンボコッコの伝記』で小学館文学賞1986年に『東京石器人戦争』で産経児童出版文化賞をそれぞれ受賞。『なまけんぼの神さま』、『おこんじょうるり』、『かっぱのめだま』、『神がくしの八月』、『ゆきこんこん物語』などの創作・評論多数。
==来歴・人物==

*1935年
*:1月16日、東京大森区(現大田区)で生まれた。5人兄弟の3男。父は早大教授で中国文学者実藤恵秀(さねとうけいしゅう)。
*1941年
*:軍国教育絶頂期の国民学校に入学したが、教師の一方的暴力について行けず、1944年、4年生のときに休学。その年の12月、米軍機による空襲が本格化し、父方の親戚を頼って広島県の農漁村に縁故疎開した。
*1945年
*:8月6日、原爆の閃光を岬越しに目撃。8月15日は玉音放送を聞くこともなく、黙々と山畑を耕し、その夜、大日本帝国と天皇のために「必勝祈願」のお百度参りをした軍国少年であった。
*1946年
*:焼け野原となった東京へ帰京。隣町の小学校の5年に編入、新しい歴史教科書「くにのあゆみ」を開いて、冒頭の石器時代の叙述に「戦後」を実感する。
*1948年
*:新制中学に入学。学生服姿の教師ともに天皇の戦争責任について白熱のディベートをするなど、民主教育の先駈けとなる授業を受ける。「演劇部」に入部して、多様な才能を結集する「綜合芸術」の魅力にとりつかれ、その後の人生を決定づけた。
*1951年
*:早大高等学院に入り、1954年早稲田大学第一文学部演劇科に進学するも、アカデミックな大学の雰囲気になじめず、地域で中学時代の仲間を集めて演劇研究会を作り、木下順二の民話劇などに取り組む。そのかたわら、「子供会」を巡演する人形劇活動で、観客の子らと一体になった芝居づくりに力を入れていた。
*1958年
*:早大を中退。草創期の戦後児童劇を牽引していた劇団「仲間」に演出部実習生として入団、全国縦断公演に参加する中で、反応が素直で感受性の鋭い子供らを、あえて「観客」に選んだ児童劇を、男子一生の仕事とする決意を固めた。
*1961年
*:6月、初めての書き下ろし児童劇『ふりむくなペドロ』を「仲間」により上演。メキシコ革命下のストリートチルドレンが、「スリ」や「かっぱらい」をやっても生き延びて行く物語に、良い子の善行譚ばかり見慣れてきた児童劇関係者は当惑したが、そのアクチュアルな手法が評価され、厚生大臣賞受賞。それに力を得て、日本の風土に根ざした民話児童劇を創作しようと、柳田國男の『遠野物語』などを典拠に何作か試作をしたが、60年代、時代は高度成長期に入り、児童劇の分野でも採算性を重視した泰西名作路線に逆戻り、創作劇の上演はきわめて困難となった。
*1963年
*:仙台シティバレエ団から「創作民話バレエ」の台本を委嘱され、すでに着手していた創作民話劇の構想を生かし、『石楠花姫』(木下忠司作曲)を書き下ろす。山鬼と盲目の村娘との愛のロマンで、後年さねとう民話の代表作『べっかんこオニ』の原型となった。その後、60年代いっぱい、テレビの教育番組の脚本や文化映画のシナリオを書くかたわら、企画担当の文芸部員として、そのころ人材輩出して活気のあった「創作児童文学」などを読み込み、子供の読書傾向を見極めて、劇団のレパートリーに反映させる役割を担う。この経験が、後に児童文学者に転身するのに役立った。
*1970年
*:11月、レパートリーの方向性を巡って、劇団首脳部との間に深刻な対立が生じ、文芸部員の職を辞す。10年あまり在籍した劇団「仲間」を離脱した。半失業状態のまま、それまで温めてきたモチーフを集大成した創作民話を書きあげ、児童文学としての評価を乞うため、理論社小宮山量平宛に送った。
*1972年
*:2月、初めての創作民話集『地べたっこさま』が、理論社より刊行された。日本児童文学者協会新人賞野間児童文芸賞推奨作品などを受賞。続いて『ゆきこんこん物語』(理論社)『なたねおりひめ』(ポプラ社)など、矢継ぎ早に発刊。無辜の民衆を前提とする木下順二斎藤隆介の創作民話と対峙して、誤りも犯せば条理にも反する等身大の民衆像を呈示、創作民話の新たな方向性を開拓した。
*1973年
*:井上洋介ともに絵本の極致に挑んだ『わらいおおおかみ』(井上洋介絵・ポプラ社刊)を発刊。翌1974年、全く予期しなかった部落解放同盟の撤収要求を受け、作品評価をめぐり論争となる。(後述:#『わらいおおかみ』撤収要求事件)
*1974年
*:創作民話を成り立たせる「日本の根っこの部分」に迫る現代小説『なまけんぼの神さま』(あかね書房)を発表。『地べたっこさま』に登場する最底辺の人々の原像を、東京山谷ドヤ街に求めた。また、同年出版された絵本『むぎひとつぶ』(村上勉絵・岩崎書店)は、汚染した地球環境からの脱出を民話的手法で描いたSF風絵本。
*1975年
*:非力ながらも必死に戦争に参加した疎開学童を主人公に、先次大戦の戦争責任に迫った『神がくしの八月』(偕成社)を発刊。戦争を素材とした「現代創作民話」というべき新たなジャンルを開拓した。
*1977年
*:古代のヤマト朝廷と東北の蝦夷との間で展開した、数次にわたる「征討戦争」を「夷狄」の側から描き、異文化の衝突を斬新な見地でとらえ直した『赤いシカの伝説』(PHP研究所)を上梓した。「古代」という遙かな時空に援用した民話手法だった。
*1979年
*:人間にけっして懐こうとしない野性味あふれるニワトリと、そんな存在と懸命に関わろうとする子供たちを描いた『ジャンボコッコの伝記』(小学館)を発表。動物愛物語にペットにならない頑強な個性をあしらい、新生面を拓く。小学館文学賞受賞。
*1985年
*:10年の歳月をかけて構想・執筆してきた大長編『東京石器人戦争』(理論社)を発刊。人類(文明)と地球(大自然)を対峙させ、現代人の生き方を根本的に問い直す壮大なテーマが評価され、サンケイ児童出版文化賞を受賞。その後、四半世紀に及ぶ絶版状態を脱して、2010年に復刻再版された。
劇作の分野では、1973年、大阪の劇団2月で『ゆきと鬼んべ』を上演したのを皮切りに、泰西名作が幅をきかす関東圏と違い、創作劇の上演が比較的自由だった関西圏を活躍の場に選んだ。優れた児童文学の脚色に長け、安藤美紀夫・原作の『でんでんむしの競馬』を三部作にして劇団2月で上演した。とくに第二部の『ウメコがふたり』(1976年)は、戦時中の子供の視点で「天皇」を見つめた傑作として注目され、後に東京芸術座により1980年1986年2003年と、足かけ20年にも及ぶ長期公演となる。またオペラ台本『べっかんこ鬼』(林光作曲・1979年 こんにゃく座)や、人形劇台本『愚直なる兵士シュベイク』(ヤロスラフ・ハシェク原作・1996年 人形劇団プーク)など、執筆ジャンルは幅広い。2004年に初演した『のんのんばあとオレ』(水木しげる原作・劇団コーロ)で斎田喬戯曲賞を受賞。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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