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SHINJYO ( リダイレクト:新庄剛志 ) : ウィキペディア日本語版
新庄剛志[しんじょう つよし]

新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日 - )は長崎県下県郡美津島町(現:対馬市)生まれ、福岡県福岡市南区出身の元プロ野球選手外野手内野手)。引退後はタレント実業家クリエイター商品プロデューサー画家など)、地方競馬馬主(株)レハサフ 所属。愛称はプリンス」など。元妻はタレントの大河内志保紺綬褒章受章(2007年)。
メジャーリーグベースボール(以下、MLB)のワールドシリーズに初めて出場した日本人選手である(2002年)。〔
2004年よりの北海道日本ハムファイターズ時代の登録名は「SHINJO」(イニシャル以外でのアルファベット表記としたのは日本プロ野球(以下、NPB)における初例〔新庄より過去にアルファベット表記とした例はD・J(ダグ・ジェニングス)をはじめとした外国人選手のみであり、日本人選手としては同年よりのG.G.佐藤(佐藤隆彦、愛称のイニシャル表記)と共に初例となる。〕)。
2001年より2009年までは個人事務所・株式会社剛ゴーエンタープライズに所属し〔ゼイヴェル、剛ゴーエンタープライズと提携して新庄剛志選手公認サイト開設 Venture Now 2016年元日閲覧 ※新庄の公式サイトは2002年と2008年にリニューアル。〕、アワーソングスクリエイティブケイダッシュグループ)と業務提携してタレント活動等を行う〔11月から芸能活動開始!? nikkansports.com 2016年元日閲覧〕。2008年に株式会社レハサフを設立し、同年より2013年まで取締役を務める〔LHSF_COLONY 新庄剛志公式オフィシャルウエブサイト 2016年元日閲覧〕。タレントとしては2010年頃に同社へ移籍し、2012年プラファーから、2013年よりエージェントオフィスタクトからマネジメント協力を得ている〔。
2010年頃よりインドネシアバリ島へ居を移している。〔新庄剛志:引退後はバリ島でモトクロスバイクレーサーに MANTANWEB 2016年元日閲覧〕
== 経歴 ==

=== プロ入り前===
福岡県で造園業を営む家庭の第2子(長男)として長崎県の母親の実家にて誕生。体重は3680gあり生後10か月で歩きだす〔『月刊タイガース』1999年3月号「新庄剛志の城・最終回」〕。小学時代に8回も交通事故に遭うが、幸い大怪我は負わずにすむ。しかし、中学時代の授業中に左手小指を切断寸前の大怪我を負い、自身はこれがもし右手だったら間違いなくプロへは進めなかったであろうと語っている〔2001著書A・21p〕。小学1・2年時には町内のサッカーチームへ所属〔2002英敏・83p〕。後にソフトボールを経て野球へのめりこむきっかけは、漫画・アニメ『キャプテン』との出会いでもある〔2001著書A・149p〕。
新庄の父親は自身が果たせなかった夢から、息子には何が何でもプロ野球選手になって欲しかったという。足の速さと肩の強さは幼い頃から身につけており、6歳時には既に大人よりも遠くまで石を投げられる程であった。やがて父親から野球を教り始める。小学時代(2年時より)の日課である自宅近くの坂道でのキャッチボールでは、新庄を坂上に立たせて父親が坂下から思い切り球を投げ、後ろにそらすと(その位置で待っていればボールは転がり戻ってくるが)「横着せずにボールが戻ってくる前に追いつけ」と言って坂上まで走らせていた。父親によると新庄は泣きながらも決して弱音を吐かなかったという〔1993BA・51p、52p〕。小学高学年時には家業を手伝い、重い石碑等を持つ作業で体力をつける〔2002英敏・97p - 100p、137p、138p〕。
小学3年時より始めたソフトボールでは、6年時5月の町内対抗大会にてサヨナラ負けの際の判定をした審判員に泣きながらひとり食ってかかり、なだめる監督にも誤審を訴え続けた。こんなにも負けず嫌いな子供は見た事がないと驚き、その様子を見るに見かねた監督が、そんなに悔しいのなら自分が監督を引き受けるから軟式少年野球チームを創ってその悔しさを晴らそうと持ちかけると、新庄は2日でメンバーを集め、ユニフォームのデザインやチーム名命名も担当して「長丘ファイターズ」というチームが誕生する〔1993BA・77p、78p〕。同チームへは後年に、後にプロ入りする古本武尊、当時には現役俳優池松壮亮が在籍する〔龍谷大・鈴木 東浜にセンバツ時のリベンジを Sponichi Annex 2016年元日閲覧〕。キャプテンエース4番打者の新庄は目立ちたがり屋で、ノーステップでのジャンピングスローをよくやっていたという。チームのコーチを買って出た新庄の父親はここでも手加減なしで、至近距離の猛ノックを浴びせ、新庄は泣きながらも最後までこれについていき、その様子は、監督が「子供がかわいそうなくらい厳しく見ていられない時もあった」と語った程である。チームは結成後1か月余りで福岡県大会64チーム中3位入賞を成しとげる〔1993BA・78p〕。
福岡市立長丘中学校時代には軟式野球部に所属。当時の監督も新庄の小学時から走力・肩力が桁外れと評すなど実力を認めていたが、一度だけ試練を与えるため、2年時の全国中学校軟式野球大会ベンチ入りメンバーから外す。大会から帰宅した新庄は自室に閉じこもり泣いていたというが、「監督は恩人」とプロ入り後に振り返っている〔1993BA・78p、79p〕。
、高校は父親からの薦めもあり、西日本短期大学附属高等学校へ一般生として入学し寮生活を送る。所属した硬式野球部には2学年先輩として後にプロ入りする石貫宏臣柴原浩が、2学年後輩として後に社会人野球選手からプロボクサーとなる荒木慶大が在籍。高校時代は中堅手であった。3年時の、1番・中堅手として挑んだ第71回全国高等学校野球選手権福岡大会4回戦・筑紫丘戦(久留米市野球場)でサヨナラ安打を記録〔新庄、初のサヨナラ打放つも冷静 日刊スポーツ 2016年元日閲覧(2006年9月6日紙面)〕。決勝の福岡大大濠戦(久留米)ではサイクル安打を達成するもチームは敗れ甲子園出場を逃す〔新庄、サイクルヒットも甲子園出場ならず 日刊スポーツ 2016年元日閲覧(2006年9月6日紙面)〕。高校時代に全国大会出場はかなわず。
同年秋のドラフト会議にて阪神タイガースから5位指名を受ける。この際の能力評価は横溝桂スカウトによると「打力:B、走力:A、肩力:特選A」であり、横溝のスカウト歴で高校生選手の肩に「特選A」をつけたのは新庄のみである〔TBS『ZONE「新庄剛志―その恐るべきポテンシャル」』より〕。新庄がファンであった読売ジャイアンツ(以下、巨人)〔2009年5月17日放送『Music Lovers』にて発言。〕のスカウトから「3位までには指名できる」という話をもらっていた事もあり、新庄父子ともに高卒でのプロ入りを迷っていたが〔2006三洲田・200p - 203p〕、最終的に父親から「お前が行けなかった甲子園でプレーできるだろう」と助言を受けた事により決意して入団する〔2002英敏・144p、145p〕。背番号は「63」に決まる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tsuyoshi Shinjo 」があります。




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