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高田川勝巳 : ミニ英和和英辞書
高田川勝巳[たかたがわ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [み]
 【名詞】 1. sixth sign of Chinese zodiac (The Serpent, 9a.m.-11a.m., south-southeast, April) 

高田川勝巳 ( リダイレクト:安芸乃島勝巳 ) : ウィキペディア日本語版
安芸乃島勝巳[あきのしま かつみ]

安芸乃島 勝巳(あきのしま かつみ、1967年3月16日 - )は、広島県豊田郡安芸津町(現在の東広島市)出身で二子山部屋(入門時は藤島部屋)所属の元大相撲力士。本名は山中勝巳(やまなか かつみ)。現役時代の体格は身長175cm、体重158kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は東関脇。愛称は「アキちゃん」、趣味は日本刀鑑賞、血液型はA型、魚座。現在は年寄高田川勝巳。
== 来歴 ==

中学進学までは柔道を行い、極めて厳格な父や叔父から激しい稽古を課せられていたが、力士になろうと志して相撲を始め全国大会にも出場した。偶然にも広島に巡業に訪れていた大関貴ノ花(12代藤島→11代二子山)に勧誘されたことがきっかけで卒業後に藤島部屋に入門した。元々貴ノ花のファンであった山中は「身体が大きいな。相撲をやらないか?」と声を掛けられると「はい」と即答。柔道を続けるものだと予想していた母は泣き、父からは「死んで来い」と送り出され、山中は「死んできます」と返したという。入門後は毎日100番以上、最大200番という猛稽古で自身を鍛え上げ、入門時128キロあった体重は2ヶ月で約30キロ落ちた。 厳格な家庭で育った山中も「本当に死ぬかもしれない」と追い詰められていたというが、一方で引退して藤島を襲名したばかりでありまだ30代前半であった貴ノ花が胸を出すと最後には貴ノ花の方が降参するなど、稽古場では驚異のスタミナを示していた。
1987年昭和62年)9月場所に十両昇進して藤島部屋初の関取となり、1988年(昭和63年)3月場所には弱冠20歳にして新入幕を果たした。入幕が決定した際には藤島と共に帰郷して父に報告したが、父は藤島の前で帰ってきた安芸乃島に拳骨を入れ、「もっと鍛えてやって下さい」と藤島に頭を下げた。入幕後は上位キラーとして知られる様になり、金星獲得は歴代最多の16個を数えるとともに対戦した横綱全てから金星を獲得した。初金星は1988年9月場所の大乃国からで、固太りで重心が低く左四つになると力を発揮した。横綱の中では特に旭富士と相性が良く、対戦成績で通算12勝8敗(不戦勝1を含む)と勝ち越した。反面、攻めが遅い部分があったため、速攻相撲が得意の相手に取りこぼすこともあり、特に琴錦を大の苦手とし、幕内対戦成績は安芸乃島の9勝39敗である。最後の対戦となった2000年平成12年)3月場所では安芸乃島が勝ったが、その相撲で琴錦は右肘の故障を悪化させ翌日から休場、引退の原因となった。
1990年(平成2年)〜1992年(平成4年)の頃には、横綱昇進がかかっていた元大関小錦にめっぽう強く「小錦キラー」と呼ばれ、小錦の最大の壁として横綱昇進を阻止した(対戦成績でも25勝10敗と大きく勝ち越している)。また1991年(平成3年)7月場所8日目には、進退を懸けていた横綱大乃国を一方的に押し出して下したが、4勝4敗と不調だった大乃国はこの一番を最後に現役引退を表明、結果的に引導を渡す格好となった。
1994年(平成6年)9月場所から1995年(平成7年)3月場所までの4場所間は、10勝5敗を一度はさんで11勝4敗3度の計43勝17敗という好成績を残したものの、大関昇進はならなかった。追い込まれると強引な首投げに出るという悪い癖があり、特に琴錦戦でこの形で幕切れをするシーンが多く見受けられた。これで逆転するケースは少なく、彼の場合は投了の形と見られても仕方ないと言われるものがある。三役陥落後も常に幕内中位で相撲を取り続けていたが、2003年(平成15年)5月場所14日目の取組に敗れ6勝8敗と負け越し、十両陥落が決定的になり現役を引退した。安芸乃島は、昭和時代に幕内を経験した最後の関取力士となった。
同様に「1度は優勝したい」と公言して、1992年(平成4年)3月場所は14日目を終えて12勝2敗と優勝争いをしたが、千秋楽には琴錦との割が組まれてこれに敗れて優勝を逃した。三賞19回、金星16個の各最多記録を保持しており、現役時代には「これだけあったら誰か賜杯1ツと取り替えてよ」とこぼした事もある。最後の16個目の金星は武蔵丸からであるが、その金星は武蔵丸が新横綱の1999年(平成11年)7月場所だった。なお、朝青龍が横綱昇進した2003年(平成15年)3月場所以降は幕内下位に低迷し、結局横綱になった朝青龍との対戦は実現しなかった。引退時には大関になれなかった悔しさをにじませており「後腕が5cm長かったら、上がってたと思う」と言い残していた。〔ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』25ページ〕
現役引退後は年寄藤島を襲名(2003年3月に自身が2002年9月から所有していた山響の名跡と貴乃花が所有していた藤島の名跡を交換済み)するとともに二子山部屋(後に貴乃花部屋)の部屋付親方として後進の指導に当たった。しかし自身の引退相撲への出席を貴乃花が拒否するなど次第に暗雲が漂い始める。後に年寄名跡を藤島から千田川に変更したが、この頃から現役時代は弟弟子だった貴乃花親方と指導方針や部屋運営の考えの違いからの確執が表面化し、2004年(平成16年)9月27日付で先代高田川が1998年に高砂一門より破門されて以来、どの一門にも属さない無派閥であった高田川部屋に移籍した。貴乃花親方から移籍許可書類への押印も拒否されたため、破門をも申し入れる事態に発展。貴乃花により部屋への出勤停止に遭っていたばかりか出入り禁止にもされて話し合いの機会を失っていた千田川は、2004年9月場所11日目(9月22日)に審判部室で必要書類を出して貴乃花に対して所属部屋変更届の承認を求める事態を起こした。〔貴親方、安芸と審判部室で大ゲンカ nikkansports.com 2004年9月23日〕このような確執もあって結果的には師匠の押印を特別に免除〔通常年寄の転籍には本人、部屋の師匠、保証人となる年寄の押印が必要となる。〕され、保証人として病床に臥していた11代二子山親方に判を押してもらい事無きを得たが、これにより貴乃花部屋とは完全に訣別した。
高田川部屋に移籍してからは積極的に若手力士に稽古を付けるとともに、2009年(平成21年)8月5日には高田川と年寄名跡を交換する形で高田川部屋を継承した〔元安芸乃島が高田川部屋継承=大相撲 時事通信 2009年8月5日〕。2009年9月5日には、東京都江東区清澄に部屋を新築・移転した。新築した部屋には、通常よりも多い5本の鉄砲柱を立て、「1日に1000回の四股と鉄砲」を目標として弟子に課し、「相手を敬う古風な力士を育てたい」と抱負を述べた。
また、2011年(平成23年)1月17日には部屋継承時から希望していた二所ノ関一門への加入が認められた〔大相撲:高田川部屋加入を決定…二所ノ関一門に 毎日新聞 2011年1月17日閲覧〕。前記の抱負からして、訣別時からの貴乃花グループ(現・貴乃花一門)への対抗意識からの二所ノ関一門加入と思われる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「安芸乃島勝巳」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Akinoshima Katsumi 」があります。




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