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高橋一俊 : ミニ英和和英辞書
高橋一俊[たかはし かずとし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [いち]
  1. (num) one 
: [じゅん]
 【名詞】 1. excellence 2. genius

高橋一俊 : ウィキペディア日本語版
高橋一俊[たかはし かずとし]

高橋 一俊(たかはし かずとし、1943年5月15日 - 1991年11月11日)は、日本の殺陣師。愛称は「カシラ」、「いっしゅんさん」。別名:澤村 竜王(さわむら りゅうおう)。
テレビ番組『仮面ライダー』で仮面ライダーがとる、有名な「変身ポーズ」の考案者である。
== 来歴 ==
1943年(昭和18年)、東京浅草生まれ。南千住で育ち、台東区斉美小学校から台東中学校に進学。
1960年(昭和35年)、17歳。高校在学中に「児童劇団ひまわり」に入団。同じく「劇団ひまわり」出身で、殺陣指導に来ていた大野幸太郎の人柄に惚れ込む。
1966年(昭和41年)、23歳。大野が創設した「大野剣友会」に創設とほぼ同時に入会。中村文弥よりは少し遅れての入団であり、岡田勝中屋敷鉄也とは同期であるが、もともとは演出家志望だった。
1969年(昭和44年)、26歳。『柔道一直線』(TBS)で剣友会が擬斗(スタントアクション)を担当するようになり、高橋が異例の抜擢で殺陣を担当。当時の高橋はこの若さで殺陣師を務めるものなど前代未聞であり、内外でも多大の心配を受けたというが、本人は「精一杯やった」と述懐している。漫画原作由来の「地獄車」、「空中二段投げ」などといった現実離れした奇想天外な柔道技を、高橋は独自のアイディアでアクション化してみせ、番組は大ヒットとなる。また、これら「地獄車」などの身体を張った体技は、そのまま『仮面ライダー』(毎日放送)でも活用されている。この『柔道一直線』で東映プロデューサーの平山亨と知り合ったことから、のちに『仮面ライダー』で殺陣を任されることになったと高橋は語っている。
1971年(昭和46年)、28歳。『仮面ライダー』で擬斗を担当。番組の企画意図である「改造人間同士の怪奇アクション」を斬新な立ち回りで表現してみせる。当初、仮面ライダー1号は「単車に乗るなどしながら風を受け、変身する」というキャラクターだったが、主演の藤岡弘が負傷して一時降板する。ところが、仮面ライダー2号・一文字隼人」役に急遽登板となった佐々木剛が、当時は自動二輪免許を持っていなかったため、「単車に乗っての変身に代わる何か分かりやすい“変身過程”を見せよう」ということになった。そこで高橋は、師匠の大野と組んで歌舞伎の「見得」を採り入れた「変身ポーズ」を考案した。この苦肉の策で怪我の功名とも言える変身ポーズは、その独創的な動きから子供たちには大いに受け容れられ、当時「子供達の間で真似しないものはいない」と評されるほどの社会現象にまで達し、番組は大ヒットとなった。
同年、学園ファンタジー番組だった『好き! すき!! 魔女先生』(朝日放送)が、「変身ブーム」を受けて変身番組に転向したため、日本初の実写変身ヒロインアクションの殺陣を担当する。
1972年(昭和47年)、29歳。高橋が『仮面ライダー』で考案した「変身ポーズ」やトランポリンを多用したアクションは子供番組を席巻し、同じ東映のみならず他社が競って特撮番組に取り入れ、日本国中を一大「変身ブーム」で包んだ。
同年、「時代劇版仮面ライダー」として毎日放送が制作した『変身忍者 嵐』で殺陣を担当。得意のチャンバラに腕をふるう。
1973年(昭和48年)、『仮面ライダーV3』(毎日放送)、『イナズマン』(NET)で殺陣を担当。『イナズマン』では当時ブームだった「超能力」のアクション化に取り組む。
1974年(昭和49年)、『イナズマンF』(NET)、『仮面ライダーX』、『仮面ライダーアマゾン』(毎日放送)を担当。
仮面ライダーシリーズの制作スタジオ「東映生田スタジオ」所長の内田有作は、『仮面ライダーX』の視聴率の低迷の原因として「アクションのマンネリ化がある」を挙げ、「怪人」をあえて「怪獣」に近いアクションに不向きなスタイルに変更し、高橋に新しい仮面ライダーのアクションを要求する。それを受けての『仮面ライダーアマゾン』で、高橋もシリーズ原点に返ったような野獣的怪奇アクションに取り組み、これに応えている。
1975年(昭和50年)、32歳。『仮面ライダーストロンガー』(毎日放送)、『秘密戦隊ゴレンジャー』(NET)で殺陣を担当。『ゴレンジャー』では、ヒーロー5人の集団アクションを担当するに当たり、歌舞伎の『白浪五人男』の見得を元に、「5人揃ってゴレンジャー」のフレーズを生み、『仮面ライダー』に代わる大ヒット作とする。
1976年(昭和51年)、33歳。大野と意見の違いから同会を破門され、独立。剣友会時代のメンバーも参加し、アクションチーム「ビッグアクション」を設立。
同年、ビッグアクションで『忍者キャプター』(東京12チャンネル)の殺陣を担当。また、宝塚劇場嵐寛寿郎のもとで『鞍馬天狗』の殺陣を担当。
1977年(昭和52年)、34歳。『快傑ズバット』(東京12チャンネル)の殺陣を担当。
1979年(昭和54年)、36歳。アニメ番組『闘将ダイモス』(テレビ朝日)のアクション振り付けを担当、自ら演じた。
同年、『バトルフィーバーJ』(テレビ朝日)の序盤の殺陣を担当。スーパー戦隊シリーズの仕切り直しともいえるこの新番組のため、『秘密戦隊ゴレンジャー』で「アカレンジャー」を演じた新堀和男を口説き落とし、当時は引退状態だった彼を主役ヒーロー「バトルジャパン」役に起用した。その結果、新堀はビッグアクション撤退後もバトルジャパン役を続け、同作終了後も引き続きスーパー戦隊シリーズでの主役の「レッド」役をのち10余年に渡って務め、同シリーズを支えることとなった。
1980年(昭和55年)年代に入って、「澤村竜王」と改名。殺陣集団『澤村剣友会』を設立。舞台公演での殺陣を中心に活躍する。
1991年(平成3年)、胃癌のため、入院先の渋谷区日赤病院で逝去。48歳。殺陣担当していた新宿コマ劇場の「島倉千代子特別公演」開催中でのことだった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高橋一俊」の詳細全文を読む




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