翻訳と辞書
Words near each other
・ 風蓮湖公園線
・ 風薫る
・ 風薬
・ 風藤康二
・ 風藤松原
・ 風蘭
・ 風蝕
・ 風街
・ 風街であひませう
・ 風街みなと
風街ろまん
・ 風街図鑑
・ 風街序曲
・ 風袋
・ 風袋重量
・ 風見
・ 風見しんご
・ 風見しんごの住まいるaGOGOGO!!
・ 風見みずほ
・ 風見りつ子


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

風街ろまん : ミニ英和和英辞書
風街ろまん[かぜまち-]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふう, かぜ]
  1. (adj-na,n,n-suf) method 2. manner 3. way 
: [まち]
 【名詞】 1. (1) town 2. (2) street 3. road

風街ろまん : ウィキペディア日本語版
風街ろまん[かぜまち-]

風街ろまん』(かぜまち-)は、1971年11月20日に発売されたはっぴいえんど通算2作目のスタジオ・アルバム
== 解説 ==
1964年東京オリンピック以降の開発・近代化で急激に失われゆく「古きよき日本・東京の姿」を「風街」という架空の街にみる、といったテーマが見て取れる。全体的にけだるい空気感がただよう。前作『はっぴいえんど』とくらべると松本隆による詞の世界観、大瀧詠一細野晴臣鈴木茂ら作曲陣による楽曲の質ともに洗練されており、はっぴいえんどとしての活動はこのアルバムでほぼ完成したと言っても過言ではない。実際、このアルバムの発表後、グループはほぼ解散状態になっている。
雑誌等でこのアルバムを紹介する際に「内容の良さとメンバーの豪華さとは裏腹に当時は全く売れなかった」などと書かれることが多々あるが、後に細野晴臣が「『風街~』は当時としては結構売れたみたいなんです。ただ、周辺の人間がみんな売り上げというものに興味がなかったから、正式な売り上げ枚数とかは残っていないみたい」とコメントしている。また、この作品は一連の日本語ロック論争に終止符を打ったとも言われる。
録音は東芝音楽工業を退社した直後の、吉野金次が担当しており、吉野の音作りが少なからずアルバムの作風を決定している。しかし、大瀧ボーカル曲は吉野ではなく、近藤むさしが録音を担当。この近藤むさしとは、ビクター音楽産業(当時)専属のエンジニアだった梅津達男の事で、ビクター以外での仕事では本名が使えない為、大瀧が近藤勇宮本武蔵から考えた「近藤むさし」としての参加であった。
クレジットにある“AQUENT AND FRIEND - 岩井宏, 三浦光輝, GG”との記述は、大瀧がプロデュースとディレクションのクレジットをはっぴいえんどにしようと主張したことと関係があるという。大瀧は「1枚目のアルバムには秦政明という知らない名前がプロデューサーとしてクレジットされてあったの。この人はアート音楽出版の社長で、どれにも“プロデュース=秦政明”と書いていたらしい。だけど、1回もスタジオに来たことがないじゃないか。なんで何もやっていないやつをプロデューサーのクレジットにしてるんだと、俺が頑強に抗議した。もちろんメンバー全員賛同した。向こうは社名を入れることで手を打ったんじゃないのかな、今にして思えば。アート音楽出版の担当・岩井宏さんは、何としても名前を入れたかったはずで、おそらくは“ディレクター”と書きたかった。だから、ディレクターは現場か会社の名前にしたいと彼らは申し出ているはずなんだよ。でも、ディレクションされた覚えがないんでそれもやめてくれ、と。そこでアクエントとかいう名義を誰かが考え出したんだと思う」と答えている。また、本作では1曲ごとにプロダクション関係者の名前が書いてあるのは、基本的には大瀧の意向だという〔。
メンバー4人の顔を配したジャケットについて、撮影を担当した野上眞宏によれば、メンバーには大変評判が悪かったという。この時アート・ディレクターは特におらず、『はっぴいえんど』での林静一同様に本作でも人気のある漫画家を起用して表面には精密な路面電車のジャケットを、裏面にはメンバーの写真を入れるつもりだった。1971年9月、野上も松本に同行して三鷹の宮谷一彦のアトリエを訪ねたところ、宮谷は白をバックにメンバーの顔が浮いているようなシンプルなデザインでいこうと言い出し、当初の案だった宮谷による路面電車のイラストは見開きジャケットの内側に入ることになった。元になる写真を野上が撮影することがその場で決まり、さっそく六本木のアート・センター・スタジオで翌10月に撮影が行われた。野上は、当時ニューヨークで活動していた小原ケン制作による『One』という、顔だけの写真集の事を雑誌『カメラ毎日』で知り、素晴らしいアイデアだと思っていたところだったので、それをイメージしながら撮影したという。顔だけをフラットなライティングと、その反対に思い切りサイドから光を当てた2タイプで撮影。前者をハイコントラストの印画紙を使って顔の輪郭をぼかして焼き、そのプリントの上に宮谷が鼻筋などをはっきりさせるために描き込んだ。野上が撮影した元の写真は、1999年リリースのシングル「あしたてんきになあれ」のジャケットに使用された。また、ジャケット裏面の写真は、野上が西海岸のロック・グループのレコード・ジャケットをイメージしながら撮影したもの。撮影は、後に細野晴臣も住むことになる稲荷山公園の“アメリカ村”。はっぴいえんどのメンバーを一日中連れ回して、かなりのカットが撮影された。マネージャー石浦信三の顔をクリップで留めるというアイデアは、やはり宮谷から出されたものだった。また、見開きジャケットの内側には、松本隆書き下ろしによる詩「風狂い」が掲載されている。
後にマルチテープが残っている事が判明した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「風街ろまん」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.