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震洋 : ウィキペディア日本語版
震洋[しんよう]

震洋(しんよう)は、太平洋戦争日本海軍が開発・使用した特攻兵器。特攻艇。
1944年10月下旬レイテ沖海戦に投入された神風特別攻撃隊より半年以上前に本特攻兵器の開発は始まっていた。小型のベニヤ板モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。「震洋」の名称は、特攻部長大森仙太郎少将が明治維新の船名を取って命名したもの〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 334頁〕。秘匿名称は「○四(○の中に四)金物」(マルヨンかなもの)、○四兵器。マルレと合わせて○ハとも呼ばれた。
震洋と共に運用された陸軍の攻撃艇マルレについては四式肉薄攻撃艇を参照。
2人乗りのタイプには機銃1~2丁が搭載され、指揮官艇として使用された。戦争末期は敵艦船の銃座増加に伴い、これを破壊し到達するために2発のロケット弾が搭載された。
== 歴史 ==

1943年、黒島亀人連合艦隊主席参謀は、軍令部に対しモーターボートに爆薬を装備して敵艦に激突させる方法はないかと語っていた〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322頁〕。
この後の1944年4月4日、黒島亀人軍令部2部部長は「作戦上急速実現を要望する兵力」と題した提案の中で、装甲爆破艇(震洋)の開発を主張した。この発案は軍令部内で検討された後、海軍省へ各種緊急実験が要望された。艦政本部において○四兵器として他の特攻兵器とともに担当主務部を定め、特殊緊急実験が行われた〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 326-327頁〕。
以上の経緯から、艦政本部第四部が主務となり設計を開始した。船体は量産を考慮し木製とし、エンジンにはトヨタの四トン積トラックの自動車エンジンを設計を強化した上で採用、速力は最低20ノット以上、30ノットを目指した。爆装については横須賀海軍工廠による実験の結果、300kgの爆薬であれば水上爆発でも喫水線下に約3mの破口を生じ、商船クラスであれば撃沈できるとの結果が出たが、震洋の小型船体では300kgの爆薬の搭載は無理であり、炸薬量を250kgに減らした上で直ちに試作にかかった。
試作艇は木造艇5隻と極薄鋼板艇2隻が作られ、船体は魚雷艇の船型を基礎とし、V型船底を持つものであった。これらは1944年5月27日の海軍記念日に完成し、直ちに試験が開始されたが耐波性が不足していることが判明、艇首を改良した。この他は所期の性能を発揮し、8月28日に正式採用された。「震洋」はこの際に与えられた名称で、またこの時点の艇が一型艇である。この直後、2人乗りの五型艇も開発され、生産された。さらにロケット推進式の六型艇(ベニヤ製)、七型艇(金属製)、魚雷2本装備の八型艇が開発されていたが、これらは実用に至らなかった。震洋は特攻艇として開発されたが設計の初期から舵輪固定装置を搭載しており、搭乗員は航空救命胴衣を着て船外後方に脱出できるようにもなっていた〔牧野『艦船ノート』p.263〕。武装は一型艇で250kgの爆薬の他、12cm噴進砲(ロサ弾)2基を搭載していた。また五型艇はこれに13mm機銃一挺を追加し、更に一部に無線電話装置が装備された。
設計時から量産を考慮して設計された為、製造が比較的容易であり、民間軍需工場でも生産された。月間生産数は終戦までに150~700隻、総生産数は終戦時までに各型合わせて6,197隻である。設計主務部員班長を務めた牧野茂は、「震洋」は技術的に見て軽量高性能であり、満足できる設計だったと述べている〔牧野『艦船ノート』p.268〕。
1944年6月25日の時点ですでに震洋は量産を開始していた〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 321頁〕。
大本営は捷号作戦に合わせて震洋隊の編成を急いだ。陸軍にも震洋と同種のマルレが存在したため密接な協調を取った。震洋とマルレは合わせて○ハと呼称されることになる。1944年8月8日までに、海軍と陸軍との間で○ハ運用に関する中央協定が結ばれた〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 334-342頁〕。大森仙太郎によれば、心配だったのは震洋搭乗員の志願者が集まるかという点であったが、思ったより多かったため安心したという〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 334-342頁〕。
訓練においては、主に長崎県大村湾の水雷学校分校と鹿児島県江の浦の2箇所で育成が行われた。1944年8月16日、最初の搭乗員50名が卒業した。8月末には300名が卒業している。その後は毎月400名が卒業した。8月16日の検討会では草鹿龍之介中将と井上成美中将が生還の可能性も考えてほしいと意見するが、最終的にそういった措置が取られることはなかった〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 334-342頁〕。○四は1944年8月28日付で「震洋」として米内光政海軍大臣より認可、兵器として制式採用された。(内兵令71号)〔#内令昭和19年9月p.2『海軍公報第十三號 内令第七一號(軍極秘) 仮称○四艇ヲ兵器ニ採用シ「震洋」ト呼称ス 昭和十九年八月二十八日 海軍大臣』〕。
震洋部隊の戦時編成は行われず、海軍省は震洋を艦艇ではなく兵器扱いの形で部隊へ供給した〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 341頁〕。
震洋は、陸軍海上挺進戦隊のマルレとともに、フィリピン沖縄諸島、日本本土の太平洋岸に配備された。1945年にはフィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍を迎撃し、幾ばくかの戦果を挙げてはいる。沖縄戦にも実戦投入された。アメリカの資料によると、終戦まで連合国の艦船の損害は4隻だった〔NHK 証言記録 兵士たちの戦争 ベニヤボートの特攻兵器-震洋特別特攻隊―より〕。
防衛司令官の直轄扱いではなく、攻撃の有無・成否・戦果などが部隊ごとの記録となった。実戦では部隊ごと全滅してしまうことが多かったことから、特に実戦投入に関する実情は不明なところが多い。従って現行の文献では米軍の記録した水上特攻戦果に対し、震洋、マルレ共に配備された地域では日本軍側の戦果報告記録が無い場合(混乱の中で消失もしくは部隊ごと消滅した場合)「マルレもしくは震洋によるもの」とされることが非常に多い。
日本本土決戦時には、入り江の奥の洞窟などから出撃することが計画され、日本各地の沿岸に基地が作られた。九州・川棚の訓練基地跡が残る。
終戦後の1945年8月16日、高知県で第128震洋隊に出撃命令が下され、準備中に爆発事故が起こり111名が死亡した。戦後、その現場には震洋隊殉国慰霊塔が建設された。
終戦の玉音放送後に出撃命令が出されたが、これは司令部の少佐が配下の部隊に独断で命令したため。第一三二震洋隊長渡邊國雄中尉は「それは少佐殿個人の考えですか。それとも司令の命令ですか。司令の命令ならともかく何の連絡も受けていませんので今日のところはお引き取り下さい」と言い出撃せず、隊員らにも「無駄死にするな。その力を新日本再建のために最大限努力するのが唯一の道ではないか」と諭した。同様の事は第一三四震洋隊長半谷達哉中尉も行った。彼らが暴走しなかったのは慶応大学卒の一般大学出身で軍隊以外の社会を知っていたからと言われ、隊員のその後の面倒も見ている〔林えいだい著「黒潮の夏 最後の震洋特攻」〕。
震洋は国内及び海外拠点各地に海上輸送により配備されたが、海上輸送線の途絶に伴い、敵潜水艦、航空機による移動中の被害が多かった。また出撃できぬまま陸戦に巻き込まれるケースも多く、こうした部隊は予期した形で実戦に参加しないうちに支援要員も含めてほとんどが戦死した。終戦時には本土決戦に対する備えとして4,000隻近くが実戦配備についていた。オーストラリアシドニーの戦争記念博物館に1隻のみ保存されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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