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野中良継 : ミニ英和和英辞書
野中良継[のなか]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
野中 : [のなか]
 【名詞】 1. in the middle of a field 
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [りょう]
 【名詞】 1. good 

野中良継 ( リダイレクト:野中兼山 ) : ウィキペディア日本語版
野中兼山[のなか けんざん]
野中 兼山(のなか けんざん、元和元年(1615年) - 寛文3年12月20日1664年1月18日))は、江戸時代初期の土佐藩家老。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いたことから領民の不興を買い失脚、一族が絶えるまで家族全員幽閉された。
は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。
南学儒者でもあり、灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励など活動は多岐にわたる。
== 来歴 ==
元和元年(1615年)、播州姫路に生まれる。
祖父・野中良平の妻は山内一豊の妹合(ごう)で、父・良明は5000石を領していた。藩主・一豊は、良明に対して幡多郡中村2万9千石を与えると約束していたが、一豊の死後に反故にされたために浪人となっていた。兼山の母は大阪の商家の娘で、父の死後、兼山は母とともに土佐に帰った。
13歳のとき、土佐藩の小倉少介に見込まれて、父の従兄弟で奉行職の野中直継の娘・市の入婿となった。15歳で元服し、良継と名乗った。
寛永13年(1636年)、養父の直継が病死すると野中家を継いで奉行になった。藩主・忠義は、兼山に藩政改革を命じることになる。まず兼山は、堤防の建設、平野部の開拓で米の増産を進め、森林資源の有効活用を行い藩の財源に充てる。また、乱伐を避けるために輪伐制なども導入していた。築港も推し進め、藩内製品の諸国での販売を広める。また、身分にとらわれず郷士などを藩政改革にあてた。藩外からも植物、魚類などを輸入し藩内での育成につとめるなどした。また、捕鯨陶器養蜂などの技術者の移入も進め殖産興業を進め専売制の強化なども行った。これらの結果、藩財政は好転を進めていくことになる。
一方で過酷な年貢の取り立てや華美贅沢の禁止などで領民に不満は溜り、逃亡する領民も出てきた。また、郷士の役職への取り立てなどは上士の反発を買い対立を深めていった。
明暦2年(1656年)、藩主忠義が隠居し、3代藩主に忠豊が付く。寛文3年(1663年)、兼山の施政に不満を持つ孕石元政生駒木工などが家老深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出。兼山は失脚し、宿毛に幽閉され、その年に死去した。なお、報復は過酷で男系が絶えるまで一族の幽閉は続き、解かれたのは兼山死去の40年後であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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