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趙倫貞 : ミニ英和和英辞書
趙倫貞[ちょ ゆんじょん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りん]
 (n) companion

趙倫貞 : ウィキペディア日本語版
趙倫貞[ちょ ゆんじょん]

趙 倫貞(チョ・ユンジョン, , Cho Yoon-Jeong, 1979年4月2日 - )は、韓国安東市出身の元女子プロテニス選手。WTAツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで1勝を挙げた。身長167cm、体重55kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。
== 来歴 ==
趙倫貞は10歳の時から、通っていた学校でテニスを始めた。ジュニア時代、1996年全豪オープンジュニア女子ダブルス部門で準優勝があり、その後プロテニスツアーを回り始めた。1997年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップの韓国代表選手になる。1998年東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントのダブルスで、当時18歳の趙倫貞はクリスティ・ボーグルトオランダ)とペアを組み、準々決勝でマルチナ・ヒンギス&ミリヤナ・ルチッチ組に敗れたことがあるが、この時ヒンギスと向かい合った試合を「最も思い出に残る経験」と語った。1998年全米オープン4大大会の予選会に初挑戦したが、この3回戦で敗退し、あと1試合のところで本戦出場を逃す。2000年のシドニー五輪ではダブルスに出場したが、初戦で敗退している。その後長い間予選の壁に悩み、ようやく3年後の2001年全米オープンで4大大会本戦初出場を果たした。2002年全米オープンで、趙は初めての3回戦進出を果たし、第6シードのモニカ・セレシュから第2セットを奪う健闘を見せたが、最後は 1-6, 7-5, 3-6 で押し切られた。2003年全豪オープンウィンブルドンで2回戦に進出した後、趙は韓国女子テニス選手としてのシングルス最高位「45位」をマークした。
趙倫貞には以前から顎関節のずれる持病があり、この影響で首・肩・背中などに累積的な故障を抱えることが多かった。世界ランキング45位につけた直後、背筋痛のためいくつかの試合を棄権し、顎の手術のため2004年4月まで戦線を離れる。2004年アテネ五輪で、趙は2度目のオリンピック出場を果たし、女子シングルスに初出場したが、2回戦でイタリア代表のフランチェスカ・スキアボーネに 6-2, 6-7, 4-6 の逆転負けを喫した。同年10月、趙倫貞は故国のハンソル韓国オープンでダブルス初優勝を達成する。パートナーは田美螺で、相手は台湾ペアの荘佳容&謝淑薇組であった。
2005年、趙倫貞はウィンブルドンで2年ぶり2度目の2回戦に進み、全米オープンで3年ぶり2度目の3回戦進出を果たした。3年ぶりの舞台で、趙は第7シードのジュスティーヌ・エナン・アーデンに 0-6, 6-7 で敗れた。しかし、2006年全豪オープンでは1回戦で第2シードのキム・クライシュテルスと当たってしまい、続く大会にあたる日本の東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントでは、1回戦で当年度から現役復帰したマルチナ・ヒンギスに 0-6, 0-6 で敗れた(試合時間35分)。この後再び背筋痛に悩み、2008年に現役引退を発表した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「趙倫貞」の詳細全文を読む




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