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谷のぼる ( リダイレクト:円谷皐 ) : ウィキペディア日本語版
円谷皐[つぶらや のぼる]
円谷 皐(つぶらや のぼる、1935年5月10日 - 1995年6月11日)は、円谷プロダクション第3代社長で第2代会長、演出家、プロデューサー歌手作詞家。別名に谷のぼる
== 来歴 ==
円谷英二の次男として生まれる。円谷一(演出家・円谷プロダクション第2代社長)は兄、円谷粲(円谷映像社長)は弟、円谷一夫(円谷プロダクション第4代社長・同社第3代会長)は息子にあたる。
玉川学園卒。同社で特撮スタッフとして長年活躍した高野宏一とは小学校で同級生だった。脚本家の金城哲夫はこの玉川学園の後輩である。
1954年(昭和29年)、成城大学入学。大学では演劇に熱中。石井伊吉は劇団仲間だった。卒業後、フジテレビに入社。「映画部」に配属され、ディレクター、プロデューサーとして活躍する。海外ドラマの声の吹き替えのプロデュースなども担当したという。本人は演劇青年だったことからドラマ演出を望んでいたが、「映画部」配属のため叶わず、残念だったと語っている。
1962年(昭和37年)、フジテレビは東宝との専属契約の切れた円谷英二を担って、父・英二のTV界進出の説得に当たるが不調に終わる。1963年(昭和38年)、4月12日、父・英二を代表取締役とする『株式会社円谷特技プロダクション』が、東宝の出資とフジテレビの後押しで発足。「監査役」として登記に名を連ねる。この年、フジテレビ映画部部長の西村五州の後押しで、SF特撮TV番組「WOO」を企画。円谷特技プロ内で星新一らSF作家を招いた企画会議を進め、金城哲夫らによって脚本も制作されるが、フジテレビ側の事情でこの企画は頓挫する。この企画のために、円谷英二が発注した光学合成機オプチカル・プリンターは、TBSが引受先となり『ウルトラQ』の制作に生かされる。
1965年(昭和40年)、アニメ番組『W3』のプロデューサーを担当。1966年(昭和41年)、この年初頭に『W3』の裏番組として、『円谷特技プロダクション』製作の『ウルトラQ』がTBSで放映開始。前年から皐が製作を務めていたこの『W3』の視聴率が一気に一桁台に低下。「(喜び半ばの)複雑な気分だった」と述懐している。この年、アニメ番組『ロボタン』のプロデューサーを担当。
1968年(昭和43年)、父英二の健康悪化を知り、フジテレビを退社。円谷特技プロの経営と営業を担当し、資金繰りのため『円谷エンタープライズ』を設立。経営を任せられたのは父英二の意向だったという。12月6日、東宝の増資を受けて一息ついたことで『円谷特技プロダクション』を『円谷プロダクション』と社名変更し専務に就任する。しかしその際、増資の救済策として150人いた社員を40人にまで削り、結果として金城哲夫等優秀な人材を失った。1971年(昭和46年)、再燃しつつあった「怪獣ブーム」を前に、社内に「営業部」を設立。各種商品化権の管理業務を本格化させ〔「ウルトラマンや怪獣のキャラクターの商品化」というアイディアは、ことにマルサンが発売した安価な「ソフトビニール人形」と、増田屋斎藤貿易のゴム製手踊り人形の爆発的ヒットによって、莫大な版権収入を同社にもたらした。〕、ブーム最盛期には、再び全ブーム期と同様に莫大なマーチャンダイジング収入を同社にもたらし、累積債務を一掃するまでとなったため、以降もキャラクター商品による版権収入路線を目指す。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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