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西郷信貞 : ミニ英和和英辞書
西郷信貞[さいごう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

西郷信貞 ( リダイレクト:松平昌安 ) : ウィキペディア日本語版
松平昌安[まつだいら まさやす]
松平 昌安(まつだいら まさやす、? - 大永5年7月22日1525年8月10日))は、戦国時代武将。通称は弾正左衛門。彼のものとみられる文書の写し〔『新編岡崎市史6』691項「松平信定判物写」。岡崎・成就院の境界を定めた永正8年(1511年)の文書。〕には信貞とあり、そのように記す史書がある(『改正三河後風土記』『朝野旧聞裒藁』など)。
大草松平家初代当主・松平光重の子とするのが一般的であるが(『寛政重修諸家譜』など)、実父は西郷弾正左衛門頼嗣であるとも言われ〔『新編岡崎市史6』851および852項所収の「大林寺由緒」。〕、それゆえ西郷信貞として呼ばれることがある。
親貞の後を継いで同家の第3代当主となり、岡崎城(明大寺旧城)を居所として、岡崎市南部および大草城愛知県幸田町北部)を支配したと考えられる〔「寛政譜」新訂1巻141項。「渥美郡大草」を額田郡と読み替えての類推(『新編岡崎市史2』563項)。〕。大永4年(1524年)に松平清康による山中城(岡崎市舞木町城山)への攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂(七郎右衛門忠茂)の調略によるものとする『三河物語』の記述がある〔昌安の降伏につき大永5年(1525年)8月説(「徳川幕府家譜」)、大永6年説(「家忠日記増補」など)もある。大永4年とするのは「朝野旧聞裒藁」に拠るもの(汲古書院刊本1巻384項)。彼の没年を大永5年7月とした上での推定である。〕。
岡崎の地を明け渡すとともに、娘「於波留」〔前掲『朝野旧聞裒藁』1巻386項。「大林寺由緒書」にこの名があったという。ただし岡崎市史所載の「大林寺由緒」には於波留の名が記されていない。同1巻403項には天文17年(1548年)2月16日卒、法名・常光院殿芳月清春とする「龍海院過去帳」の記事が収められている。また「徳川実紀」巻1では「春姫」となっている。(参考:龍海院→愛知県岡崎市明大寺町西郷中34-1にある曹洞宗寺院。「龍海院過去帳」→国立公文書館所蔵。忌日16日の条に「清康公の室 道幹公母」と記されている。「大林寺由緒」も同旨。松平広忠(法名・道幹)を弾正左衛門信貞の実孫とする。)〕を清康に嫁がせ、自らは大草に隠遁した。墓所は岡崎市魚町1-6の大林寺。法名・泰叟昌安禅定門〔没年および法名は「大林寺由緒」および「柳営婦女伝系」(『徳川諸家系譜』1巻131項)に拠る。「三河国二葉松」碧海郡「大林寺」の項は大永4年7月23日卒と記し、「朝野旧聞裒藁」汲古書院刊1巻405項には、大永4年7月22日(「貞享書上」)、享禄4年(1531年)7月22日(「松源大譜系」)とする記事が紹介されている。また「岡崎領主古記」(国立公文書館他で所蔵)では大永5年7月23日卒となっており、同書ではこの説を採用している。(参考:「松源大譜系」→国立公文書館所蔵)〕。
子は七郎「昌久」とされ(「干城録」巻2)、また娘は上記・清康の妻のほかに水野忠政の妻がいる(「寛政譜」新訂6巻33項)。
==参照資料==




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松平昌安」の詳細全文を読む




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