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西武都市開発 : ミニ英和和英辞書
西武都市開発[せいぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
西武 : [せいぶ]
 【名詞】 1. (1) Seibu (conglomerate: stores, railway, etc.) 2. (2) Western military 
: [みやこ]
 【名詞】 1. capital 2. metropolis 
都市 : [とし]
 【名詞】 1. town 2. city 3. municipal 4. urban 
: [し]
  1. (n-suf) city 
開発 : [かいはつ]
  1. (n,vs) development 2. exploitation 
: [はつ]
  1. (n,suf) (1) departure 2. (2) beginning 3. (3) issued by (e.g., document) 4. (4) counter for gunshots 

西武都市開発 ( リダイレクト:西洋環境開発 ) : ウィキペディア日本語版
西洋環境開発[せいようかんきょうかいはつ]

株式会社西洋環境開発(せいようかんきょうかいはつ)は、日本にかつて存在した不動産デベロッパー。本社はサンシャイン60ビルに所在した。
== 概要 ==
1970年堤清二の下に義明から「西武化学をあなたの方で引き取ってほしい。」と打診した。清二はグループ内に会社が増えることはいいことであるし、製造業なら多少は興味もあった為、その要請を受諾。西武百貨店が西武化学の発行する株式の全額を引き受けた上で、倍額増資するという方法で国土計画系列から西武流通グループ(セゾングループ)入りした〔『セゾンの歴史 下巻 変革のダイナミズム』P240。〕〔清二がこの決断に至ったのには、従来西武百貨店が銀行融資を受ける際、担保不足分は西武鉄道債務保証をしていた。この為鉄道への依存脱却を図る方途として、不動産を有する西武化学を取得することが担保力の増大に繋がると思い、引き取りの断を下したとの解説が提示されている。『セゾンの歴史 下巻 変革のダイナミズム』P240。〕。72年1月、不動産・開発部門は西武都市開発、製造部門は新しい西武化学工業(後の朝日工業)へと会社分割を行い、さらに同5月には西武百貨店の開発部門を独立させたディベロッパー西武を吸収合併した〔『セゾンの歴史 下巻 変革のダイナミズム』P241。〕。そして86年、横浜の不動産会社である太洋不動産興業とシティ・クリエイト〔西武都市開発と西武百貨店の出資によって設立。つかしんをプロデュース。〕を吸収合併。社名を西洋環境開発(西環)と変更した〔『セゾンの歴史 下巻 変革のダイナミズム』P564。〕。
前身の西武都市開発は田中角栄が唱えた列島改造による土地ブームにのって、仙台から九州までの土地を取得した〔『堤清二とセゾングループ 』P227。〕。しかしその後のオイルショックや狂乱物価等によって、土地は塩漬けとなり借入金700億円が残った上、76年には倒産の噂まで出た〔『堤清二とセゾングループ 』P226。〕。そこで、清二が国土計画本社を訪れ義明に対し支援を要請し、不動産のエキスパートを派遣してもらった〔『堤清二とセゾングループ 』P236。〕。これによって西武流通Gに対する信用不安は生ぜず事なきを得た。
83年東京テアトル、85年東海観光(現:アゴーラ・ホスピタリティー・グループ)に資本参加し、両社は子会社化されセゾンG入りした。また、ホテルエドモンド(現:ホテルメトロポリタンエドモント)の運営参画、地中海クラブとの提携に加えて、シェル石油の関連会社であったシェル興産との提携による六本木WAVEビルの建設やシェルガーデンへの資本参加のほか〔『セゾンの挫折と再生 Series SAISON 2』P48。〕〔『セゾンの歴史 下巻 変革のダイナミズム』P559。〕、86年には日本郵船との業務提携も締結した〔『セゾンの歴史 下巻 変革のダイナミズム』P564。〕。
80年から販売が開始された汐見台ニュータウン、85年販売開始の桂坂ニュータウンは個性的な住宅地として世評が高かったほか〔『セゾンの挫折と再生 Series SAISON 2』P49。〕、80年代から特別清算申請後までには「ヴィルヌーブ」ブランドで分譲マンションの開発・販売も行っていた(西洋ハウジングが受託販売)。また1963年、西武百貨店不動産部が開発に着手しそれを引き継いだ八ヶ岳高原海ノ口自然郷では音楽堂を建設。従来の別荘分譲とは異なる新しいモデルを確立した〔『セゾンの歴史 下巻 変革のダイナミズム』P575。〕。このほか生活を楽しむ「生活遊園地」をキーワードに約12年の歳月かけ完成させた「つかしん」は〔『セゾンの歴史 下巻 変革のダイナミズム』P410。〕、関西地区や全国におけるセゾンGや西環の知名度向上に貢献した〔『セゾンの歴史 下巻 変革のダイナミズム』P413。〕。
アーティスティックな活動で注目された清二は小売業の域から脱することを目論んで「生活総合産業」を謳い、不動産開発に傾倒するようになる。これは西武グループの中核部分を父康次郎から引き継いだ異母弟義明への対抗心からではないかとも指摘された〔。
西環はバブル景気による過剰投資が祟り、94年度末までに関連会社まで含めて7,527億円もの負債を抱え込むに至り、日本興業銀行(IBJ)から清二に対して西環の経営が重大な局面に達していると通告された〔西環のメインバンクはIBJ、セゾンG全体のメインバンクはDKB。〕。それを受けセゾンGは、第1次西環支援を実施し〔『セゾンの挫折と再生 Series SAISON 2』P122。〕、手掛ける事業は、住宅、ビル、八ヶ岳事業に絞り込まれた〔『セゾンの挫折と再生 Series SAISON 2』P124。〕。
金融不況に突入した97年以降西環の処理は、第一勧業銀行(DKB)、IBJら取引8行の懸案事項となった。またその渦中には、メインバンクであったDKBにおいて総会屋事件が発覚。行内の混乱によってそれまでの経過や合意事項の引継ぎがほぼすべて反故となった〔『セゾンの挫折と再生 Series SAISON 2』P126。〕。さらに西武百貨店トップに就任し改革を断行していた和田繁明と清二および、百貨店首脳とグループ首脳との間に深刻な軋轢が生じ〔『セゾンからそごうへ 和田繁明の闘い』〕、西環の帰趨に重大な影響をもたらした。00年7月、臨時株主総会で解散を決議。東京地裁特別清算を申し立てた。負債総額は約5,538億円にのぼり、事実上倒産した。西環の経営破綻はセゾンG解体の大きな要因となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「西洋環境開発」の詳細全文を読む




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