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虫プロ商事株式会社 : ミニ英和和英辞書
虫プロ商事株式会社[むし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [むし]
 【名詞】 1. insect 
: [しょう]
  1. (n,n-suf) quotient 
商事 : [しょうじ]
 【名詞】 1. commercial affairs 
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
: [かぶ]
 【名詞】 1. share 2. stock 3. stump (of tree) 
株式 : [かぶしき]
 【名詞】 1. stock (company) 
株式会社 : [かぶしきがいしゃ]
 【名詞】 1. public company 2. corporation 3. KK 4. formula for an incorporated public company 
: [しき]
  1. (n,n-suf) (1) equation 2. formula 3. expression 4. (2) ceremony 5. (3) style 
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 
会社 : [かいしゃ]
 【名詞】 1. company 2. corporation 
: [やしろ]
 (n) shrine (usually Shinto)

虫プロ商事株式会社 ( リダイレクト:虫プロダクション#虫プロ商事 ) : ウィキペディア日本語版
虫プロダクション[むしぷろだくしょん]

虫プロダクション(むしプロダクション、通称: 虫プロ)は日本アニメーション制作会社。漫画家アニメーターである手塚治虫が関係したアニメーション専門プロダクションである。本項では1961年に設立され1973年に倒産した「株式会社虫プロダクション」(旧虫プロ)とその子会社である虫プロ商事、1977年に旧虫プロの労働組合を母体として設立された「虫プロダクション株式会社」(新虫プロ)に分けて記述する。
== 株式会社虫プロダクション(旧虫プロ) ==
株式会社虫プロダクション(通称: 虫プロ)は、1961年6月に手塚治虫が創設したアニメーション専門のプロダクションである「手塚治虫プロダクション動画部」が1962年1月に改称したものである。
1961年、手塚治虫プロダクション動画部を設立。手塚はこれ以前に、東映動画嘱託としてアニメ制作に携わったことがあり、その経験と人脈を生かしてプロダクションを立ち上げた。1962年1月、株式会社虫プロダクションとして正式に発足した。名称の"虫"には「漫画の虫」「アニメの虫」「無死(不死身)」の意味が込められた。〔『手塚治虫物語 漫画の夢、アニメの夢』p21〕
1962年11月5日に第1作である短編(38分,カラー、ワイド)のアニメーション映画『ある街角の物語』及び『鉄腕アトム』第1話(モノクロ)を公開。同年12月、株式会社として法人登記。翌1963年1月1日、日本初の30分放送枠用の連続テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を、1965年に日本初のカラーの本格的連続テレビアニメ番組『ジャングル大帝』などの多くのアニメ作品を制作し(その後にも「どろろ」などのモノクロ作品も制作)、従業員数も最盛期には400人を数える日本有数のアニメーションスタジオになった。テレビ向け作品の多くはフジテレビで放送された。初期には手塚原作の作品のみを制作していたが、末期には『あしたのジョー』など手塚作品ではない漫画のアニメ化も行った。)。
1966年7月、社内の版権部、出版部、営業部を分離独立させる形で子会社に虫プロ商事を発足させ、同時に虫プロ本体の債務を移転した。
『鉄腕アトム』の放送実現を機に萬年社を退職して1963年に虫プロの常務に就任し、以来、経営の舵取りを担い社内改革を進めてきた常務の穴見薫が1966年12月に突然死した。これを機に経営は迷走していく〔池田啓晶『鉄腕アトムvs鉄人28号 僕たちの「少年」時代』WAVE出版、1993年、p.82。坂本雄作インタビューより。〕。その死の直後には、穴見が独断でフジテレビから1億3千万円の融資を受ける代償として、虫プロの全作品の権利がフジテレビに譲渡される契約をしていたことが発覚。虫プロがフジテレビとの交渉により、1978年まで10年間の放映権をフジテレビが占有することを条件に権利が取り戻された〔山口且訓、渡辺泰文『日本アニメーション映画史』有文社、1977年、p.170〕〔手塚治虫「虫プロのてんまつ」『手塚治虫 ぼくのマンガ道』新日本出版社、2008年、p.84〕。
1971年6月、手塚が今後の虫プロの方針として、初心どおりに作家集団として進めるか、利益追求そのものを目的とする企業体とするかを問いかけ、繰り返し社員総会が開催。話し合いの結果、大多数の社員が川畑栄一部長を中心とした利益追求の企業体制を固めることで結論が出る。これに失望した手塚治虫がそれまでの赤字を負担する条件で社長を辞任し、同調して退社する人材も相次いだ。社長には川畑が就任し、資本金が200万円から1,000万円に増額。労働組合も結成された〔〔石津嵐『秘密の手塚治虫』太陽企画出版、1980年、p.174〕〔山本暎一『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、1989年、pp.289--291〕。
人件費が高騰。テレビアニメ制作プロダクションが多く設立されると他プロダクションとの受注合戦となり、これに敗れる形でテレビ局からの受注が減少し、資金繰りが悪化した。子会社の虫プロ商事の経営悪化と労働争議も、金融機関が虫プロ本体に警戒を抱く原因になった。劇場用作品の興行的な失敗もあり、資金繰りが短期間に極端に悪化。1973年8月22日に子会社の虫プロ商事が約4000万円の負債を抱えて倒産。この後、銀行などからの融資が引き上げられたことが倒産の直接のきっかけとされるが、実際には、子会社の倒産を回避できないほどに、虫プロ本体の経営状態も悪化していた。8月現在で9月放映終了の『ワンサくん』以後の制作作品の目途はたっておらず、この時点で既に虫プロ本体の倒産は免れない状態となっていた。そして、虫プロは『ワンサくん』放映終了直後の1973年11月5日に3億5千万円の負債を抱えて倒産する。
なお、手塚原作作品の率が少なくなってきた1971年に、手塚は社長を退任している。その退任時にそれまでの債務をすべて個人で引き受けることとした。手塚が本社の社長を退任した後、虫プロ倒産までは制作畑の川畑栄一が虫プロの経営を担っており、倒産時の社長は川畑であった。この倒産から新社設立までの間に、多くのスタッフは他のスタジオへと移籍していった。また、プロ野球球団・ヤクルトアトムズがヤクルトスワローズに名称変更したきっかけになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「虫プロダクション」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mushi Production 」があります。




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