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董其昌 : ミニ英和和英辞書
董其昌[とう きしょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [き]
 (n) that

董其昌 : ウィキペディア日本語版
董其昌[とう きしょう]

董其昌(とう きしょう、嘉靖34年1月19日1555年2月10日) - 崇禎9年11月11日1636年12月8日))は、中国代末期に活躍した文人であり、特に書画に優れた業績を残した。清朝康煕帝が董の書を敬慕したことは有名である。その影響で清朝において正統の書とされた。また独自の画論は、文人画(南宗画)の根拠を示しその隆盛の契機をつくった。董が後世へ及ぼした影響は大きく、芸林百世の師と尊ばれた。
字を玄宰。号は思白・思翁・香光と称し、斎室の戯鴻堂・玄賞斎・画禅室も号として用いている。に帰依していたため香光居士ともいった。華亭県(上海市松江区)の人。
== 略歴 ==
幼い頃より高級官僚にして書家で名を馳せた莫如忠の書生となり、その子是龍に兄事した。13歳で科挙童試に合格し諸生となる。万暦17年(1589年)、35歳にして殿試に及第し進士となり翰林院庶吉士となった。次いで編修、光宗が皇太子の頃の教育係などを歴任し高級官僚の道を歩む。しかし万暦27年(1599年)、政争に巻き込まれて左遷されると病気を理由に職を辞して帰郷。6年後に湖広提学副使になったが生員らの騒擾事件を引き起こしてしまい1年半で辞職。十数年後、光宗が即位するとその招聘を受けて天啓元年(1621年)太常寺少卿に任命され『神宗実録』の編纂に携わる。即位一ヶ月あまりで光宗が卒してしまうとほぼひとりで『光宗実録』を編纂した。この功績を評価され要職を歴任し南京礼部尚書(南京の文部大臣)になった。しかし、権力を掌握した宦官魏忠賢に粛清されることを危惧して辞職。崇禎4年(1631年)また召し出され南京礼部尚書を任命されたが翌年引退。太子太保を加えられる。帰郷してほどなく病没。死後に太子太傅を与えられる。享年83。南明福王のときに文敏号が贈られた。
董は官僚としての栄達を強く望んでいたわけではなく、むしろ政務にあるときも郷里の松江華亭で多くを過し、詩書画三昧の生活を好んだ。またその一族とともに高利貸などを営みかなりの横暴を働いて富を収奪し書画の収集などに費やした。このために恨みを買い民衆の襲撃にあって家を焼かれている(董氏の奴変 1619年)。一説には勢家(土地の権力者の一族)との権力抗争が激化したことによるものとされる。
当時の松江華亭はお隣の蘇州と比肩するほどに商業的な発展を遂げて、市民社会にゆとりが生じ文雅文芸を楽しむ気風が醸し出された。書画の販売・出版熱にともなって江南都市文化は洗練されていった。そのような環境の中で董は多くの文人墨客と親交を深めた。特に友人の陳継儒莫是龍顧正誼との相互の交わりが董の芸術活動に大きな影響を与えた。やがて董は江南における芸苑の重鎮となっていった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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