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船木和喜 : ミニ英和和英辞書
船木和喜[ふなき かずよし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふね]
 【名詞】 1. ship 2. boat 3. watercraft 4. shipping 5. vessel 6. steamship 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 

船木和喜 : ウィキペディア日本語版
船木和喜[ふなき かずよし]

船木 和喜(ふなき かずよし、1975年4月27日 - )は、F.I.T所属のスキージャンプ選手。北海道余市郡余市町生まれ。小樽北照高等学校出身。日本代表として冬季オリンピック2大会(1998年長野2002年ソルトレイクシティ)、世界選手権5大会に出場。長野オリンピックで団体ラージヒルおよび個人ラージヒルの2種目で金メダル、個人ノーマルヒルで銀メダルを獲得している。この他、世界選手権獲得金メダル1、銀メダル3、スキージャンプ・ワールドカップシーズン個人総合で日本人歴代最高の2位などの成績を残している。
== 経歴 ==
10歳の時にスキージャンプ競技を始める。余市町立旭中学校在籍時の1991年2月に第28回全国中学校スキー大会ノルディックスキー・スペシャルジャンプで優勝。小樽北照高等学校進学後、1992年12月20日にスキージャンプ・ワールドカップ(W杯)札幌大会ラージヒルに開催国枠で初出場し、27位となる。
高校卒業後はデサントに所属。1994-95シーズンの12月10日、前述の開催国枠での出場を除いて初めて出場したW杯プラニツァ大会()ノーマルヒルで、バッケンレコードを記録しての初出場初優勝を達成した。年末年始のスキージャンプ週間ではインスブルック()でのW杯2勝目をはじめ、全4戦でトップ10入りして総合2位に入った。その後もほとんどの試合でトップ10入りし、シーズン個人総合でも4位入賞。サンダーベイ()での世界選手権にも初出場し、ラージヒルで5位入賞。
1995-96シーズンは12月17日シャモニー()での7位が最高で総合でも33位だったが、翌1996-97シーズンは復調し、12月7日のW杯クーサモ()で2位に入りシーズン初表彰台を獲得すると、12月14日のハラホフ()でシーズン初優勝。シーズン総合では4勝をあげて3位入賞を果たした。トロンハイム()での世界選手権では団体で銀メダルを獲得。ノーマルヒルでも4位入賞の好成績。
長野オリンピックシーズンの1997-98シーズンはW杯第2戦、4戦で5位に入った後、年末年始のスキージャンプ週間では第1戦から3連勝して日本人初の総合優勝を達成。長野オリンピック直前の1月25日にオーベルストドルフ()開催されたスキーフライング世界選手権(兼W杯)では4本のジャンプ全てで飛形点満点を獲得し、金メダルを獲得(日本人選手の金メダル獲得は1992年の葛西紀明以来2人目)。
2月の長野オリンピックでは金メダル2つ(個人ラージヒル、団体ラージヒル)、銀メダル1つ(個人ノーマルヒル)を獲得する活躍を見せた。個人ラージヒルの2本目では、オリンピック史上初めて審判全員が飛形点20点をつけるなど、「世界一美しい」と称されるジャンプフォームを誇った(国際大会で5人の審判全員が20点をつけたのは船木の他には1976年のジャンプ週間でのアントン・インナウアー、2009年のジャンプ週間でのウォルフガング・ロイツルのみ。)〔。オリンピック後のW杯順位はやや伸び悩み、プリモジュ・ペテルカに総合得点で逆転を許したが、3月21日のプラニツァ大会を含むシーズン5勝をあげて、個人総合成績で日本人選手歴代最高の2位に入った。
翌1998-99シーズンは第1戦リレハンメル()で4位、翌日の2戦目で3位に入りシーズン初表彰台を獲得したのを皮切りに4戦連続で表彰台を獲得。1月10日のエンゲルベルク()でシーズン初勝利。1月24日の札幌大会、3月6日のラハティ()と併せてシーズン3勝をあげ、個人総合では4位入賞。ラムソウ()で開催された世界選手権の個人ノーマルヒルでも金メダルを獲得、団体でも銀メダルとこのシーズンも世界トップクラスの実力をキープした〔。同シーズン終了後の1999年6月、それまで所属していたデサントから独立して有限会社フィットを設立した(後に2006年6月には会社所在地をこれまでの東京から札幌に移すとともに社名を「株式会社F.I.T」に変更)。
しかしその後は、身長によってスキー板の長さの制限がかけられる等の競技ルール変更の影響を受け、ジャンプ技術の変革に乗り遅れた日本ジャンプ陣を象徴するかのように不振に陥った。1999-2000シーズンはザコパネ()、インスブルックでの4位が最高で、トップ10入りは何度もあったものの表彰台獲得はならず総合14位。2001-02はさらに落ち込み、トップ10入りがパークシティ()の1度だけで総合30位となった。
ソルトレイクシティオリンピックシーズンの2001-02シーズンは、成績は幾分持ち直すことに成功し、W杯クオピオ大会とフィラッハ大会で3シーズンぶりの表彰台獲得となる3位入賞。W杯シーズン個人総合では11位。2月のオリンピック開会式でオリンピック旗を掲揚する際の旗手を務めた。競技では期待された2大会連続のメダル獲得はならなかったが、ラージヒルは7位入賞、ノーマルヒルは9位でいずれも日本人選手トップの成績。団体は5位。
翌2002-03シーズンからは再び不振により成績が落ち込んだ。2004-05シーズンのW杯札幌大会で6シーズンぶりの優勝を飾った(悪天候のため一本目の競技のみで順位を決定)が、2005/06シーズン以降はW杯転戦組から外され、トリノオリンピック()出場はならなかった。
しかし、ジャンプ競技への強い意欲を持ち続けて地道に努力した結果、2009年コンチネンタルカップで2位、4シーズンぶりに出場したW杯札幌大会で19位となった〔。同年7月12日に行われた、国内サマージャンプ開幕戦の第29回全日本サマージャンプ朝日大会で優勝、続く7月18日に行われた札幌市長杯宮の森サマージャンプ大会でも優勝し、復活を遂げた。勢いに乗った8月29日の2009FISサマーグランプリ白馬大会では4位入賞を成し遂げた。2009-10シーズンのワールドカップ遠征メンバーからは外れたものの、自費により格下のコンチネンタルカップを転戦し、ポイントを獲得したうえでW杯に復帰、さらにバンクーバーオリンピック()出場を目指していたが果たせなかった。
2008年2月に食品卸売会社「えにし」を設立し、各地の物産展で餃子・コロッケ・ドーナツなどを販売しその収益を少年少女ジャンパーの育成に充てている。
2010年10月に観光庁よりスポーツ観光マイスターに任命された。12月18日の名寄ピヤシリジャンプ大会で優勝、2005年2月ワールドカップ札幌大会以来6シーズンぶりに優勝した。2011年のアルマトイ冬季アジア大会()では選手団主将を務め、2種目でメダルを獲得。
2013年、北海道ハイテクノロジー専門学校から独立した北海道メディカル・スポーツ専門学校の副校長に就任した。2015年に勢藤優花が同校に入学し、スキージャンプの指導も行っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「船木和喜」の詳細全文を読む




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