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航空ジャーナル : ミニ英和和英辞書
航空ジャーナル[こうくうじゃーなる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

航空 : [こうくう]
 【名詞】 1. aviation 2. flying 
: [そら]
 【名詞】 1. sky 2. the heavens 
ジャー : [じゃー]
 【名詞】 1. jar 2. (n) jar
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

航空ジャーナル : ウィキペディア日本語版
航空ジャーナル[こうくうじゃーなる]
航空ジャーナル(こうくうジャーナル/''Aviation Journal: AJ'')は、株式会社航空ジャーナル社がかつて出版していた航空専門月刊誌である。また、一般名称として同社(航空ジャーナル社)を指すこともある。
1974年7月1日創刊。毎月1日発行、1988年7月号で休止。別冊および臨時増刊号は5日発行となることが多かった。
== 概要 ==
1974年に航空ジャーナリスト評論家青木日出雄が株式会社航空ジャーナル社を設立、同年7月1日に創刊号を発行した〔。
日本における航空関係の専門雑誌第二次世界大戦前から存在し、老舗雑誌としては1930年(昭和5年)5月1日創刊の『航空時代』(航空時代社)がある。戦中には1940年(昭和15年)11月に『航空朝日』(朝日新聞東京本社)が創刊し、新興航空大国日本をアピールする象徴的存在となったほか、軍部の国威発揚手段にも利用された。第二次世界大戦に敗北した日本は進駐軍占領され、戦力解除の名の下に一部を除き一切の航空活動が禁じられたが、1945年(昭和20年)11月18日、日本に航空禁止令が公布されたことにより研究を含む航空関係事業の壊滅は決定的なものとなった。例えば上述の『航空朝日』は、航空禁止令の公布と期を同じくして同年11月に計59巻の発刊を以って廃刊となっている。
1951年9月8日サンフランシスコ講和条約の調印が行われてようやく航空禁止令が解除になったが、進駐軍が航空禁止令解除の前に営業目的の会社設立を認めた〔日本航空協会民間航空再開50年座談会 〕ため、航空機利用事業等に先んじて出版業界が航空雑誌の復活を目指して活動を開始した。
早速同年(昭和26年)10月には『航空情報』(酣燈社)が創刊、『世界の航空機』(鳳文書林)や翌1952年(昭和27年)の『航空ファン』(文林堂)も後に続いた。1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、航空禁止令が正式に解除されたのに続き、1956年には連合国による航空禁止令が全面解除されて日本の航空産業は復興の緒に就いたが、航空雑誌の分野では『世界の航空機』が第80号を以って廃刊し、1958年1月創刊の『航空マガジン』(モーターマガジン社)も一年少々で廃刊するという淘汰の時代が訪れた〔この時期を乗り越えた『航空情報』や『航空ファン』は本誌廃刊後も存続した。〕。
一時の航空専門雑誌の創刊熱は冷めたものの、戦後の高度成長期を迎えた日本では航空需要が増大を続けし、併行して趣味としての航空情報のニーズが高まった。本誌の創刊はこのような時期になされた。航空ジャーナル社の設立者である青木日出雄が航空自衛隊出身であることから、航空禁止令直後に創刊した雑誌に比べて軍事並びに軍用機情報に強く、新規の読者を開拓することに成功した〔航空ジャーナルに続いて1977年3月に創刊した『エアワールド』(エアワールド社)も航空ジャーナルの成功に習い、軍事情報に割くページを多くしたりして生き残りを図った〕。
航空ジャーナルの初代編集長は航空ジャーナル社の社長でもある青木日出雄が長く務めた後、副編集長であった藤田勝啓が二代目編集長に就任。三代目の編集長には青木日出雄の甥でもある中村浩美が就いている。中村に続いては青木日出雄の長男である青木謙知が編集長となったが、彼が同誌の最後の編集長ということとなった。なお、倒産時の社長は前中信雄であった〔。末期に謙知は編集長名で1987年11月に発生した大韓航空機爆破事件の初動において、新聞上で分析コメントを求められて初動捜索体制の問題点について答えている〔「依然発見されぬ大韓航空機、ナゾの航跡を検証」『毎日新聞』1987年12月5日東京朝刊22面〕。
編集の特徴として軍用機に強く、米ソ冷戦を背景にした東西両陣営の比較や航空自衛隊の情報に優れていた。1971年のニクソンドクトリン以来米軍戦闘機の配備が無かった三沢飛行場F-16が配備された際にも解説を行ったが、ソ連が「対抗措置をとらざるを得ない」と通告してきたこと、戦術核を搭載可能なこと、配備前より在日米軍の戦力が優越していることなどを根拠に「軍縮のための話し合いをソ連に呼びかけるべき」として反対の意見を表明している〔「軍縮に逆行のF16配備」『朝日新聞』1982年12月6日夕刊3面
青木の経歴と共に『航空ジャーナル』創刊の経緯等にも言及。〕。
民間航空についてはハード面に注目し、広胴機の特集を組むことも多かった。但し、狭胴プロペラ機であってもYS-11については再三記事として取り扱っている。
時折、同一シリーズ企画が臨時増刊号と別冊にまたがることがあり、読者を惑わせる原因となった。
本誌は堅い編集方針と綿密な取材が特徴であったが、これは編集長を退いた後も同誌の主筆として健筆を振るった青木日出雄の手によるところも大きかった。1988年6月8日に青木日出雄が世を去るのと歩を同じくして航空ジャーナル社は廃業。本誌は1988年7月号を最後に廃刊となった〔「青木日出雄氏 死去=航空ジャーナル社取締役主筆」『毎日新聞』1988年6月9日東京朝刊27面
喪主は長男の謙知〕。
航空ジャーナル社および本誌の詳細は以下のとおり〔奥付より転載〕。
* 発行所
: 株式会社航空ジャーナル社:
: 郵便番号101 東京都千代田区神田小川町2-3 福生ビル4階
: 電話 東京(03)293-0937、291-8095~6
: 振替 東京8-176190
* 印刷所
: 新日本印刷株式会社(本文)
: 株式会社・トープロ(表紙)
: グラビア精光株式会社(グラビア)
: 東和写真製版株式会社(製版)など

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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