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第四インターナショナル : ミニ英和和英辞書
第四インターナショナル[だいよんいんたーなしょなる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [よん]
  1. (num) four 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

第四インターナショナル : ウィキペディア日本語版
第四インターナショナル[だいよんいんたーなしょなる]

第四インターナショナル(だいよんインターナショナル、、FI)は、ヨシフ・スターリンが指導していた第三インターナショナル(コミンテルン)に対抗して、レフ・トロツキーの呼びかけによって1938年に結成された国際共産主義組織。資本主義スターリン主義に反対して世界社会主義革命を志向し、各国に組織があるが、1940年代以降は多くの潮流に分裂している。
コミンテルンの最初の4回の大会の決議と、第四インターナショナル創立大会で採択された「資本主義の死の苦悶と第四インターナショナルの任務――過渡的綱領」を基礎理論とする。
== 結成の経緯 ==
レーニンとともにロシア革命を指導したトロツキーは、1924年のレーニンの死後、ソ連邦共産党書記長となったスターリンが打ち出した「一国社会主義建設」(それまでのレーニンらの主張する「革命がロシアからヨーロッパ、そして世界に波及しないかぎり革命ロシアは生き残れない」という方針に対してスターリンは「革命が波及しなくてもロシア一国で社会主義は建設できる」と主張した)論に対して「世界革命路線の堅持」と永続革命論を対置し「左翼反対派」を結成して激しく反対した。この「左翼反対派」が第四インターナショナルの源流とされる。
スターリンは書記長という権力を利用して党内で多数派を形成し、トロツキーを政府・党の閑職に追いやり、1927年には「ロシア大革命十周年記念式典」に際しての「左翼反対派」の「スターリン打倒」を掲げたデモ行進を「反党活動」であるとしてトロツキーを共産党から除名し、1929年にはソ連国外に追放する。この間スターリンのイギリスの労働運動への指導や中国革命の方針などをめぐって、スターリン派とトロツキーら「左翼反対派」のあいだで激しい論争が繰り広げられていた。トロツキーは、スターリンの指導を「日和見主義と冒険主義のジグザグ」などと批判したが、国外追放された時点においても「共産党を割って出るのではなく、内部に留まって改革するべき」と主張していた。
当時ドイツでは、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が急速に勢力を伸ばしていた。トロツキーは、ドイツの事態に対して「ドイツ社会民主党ドイツ共産党統一戦線の形成によってナチスに対抗するべき」と主張したが、スターリンとドイツ共産党指導部は「社会民主党もファシズムの一種でありナチスの双生児」といういわゆる「社会ファシズム論」によってトロツキーの主張を一顧だにしなかった。そして、1933年のナチスによる権力掌握によって、ドイツ共産党がほとんど抵抗できないまま暴力的に弾圧され急速に解体されるという事態に際して、トロツキーは「コミンテルンは死んだ。もはや誰にも生き返らせることは出来ない」として、はじめて「新しいインターナショナルの創設」を提起する。
1936年に「大粛清」を開始したスターリンは、自らに反対する者、あるいは抹殺してしまいたい者に対して「トロツキスト」というレッテルを多用した。ここで言う「トロツキスト」とは「ソ連邦の破壊を目論むトロツキーを頭目とする反革命分子で帝国主義の手先の群れ」と定義されたが、実際は粛清された多くの者はトロツキーあるいは「左翼反対派」の組織とは無関係であった。このレッテルとしての「トロツキスト」という用語は、「スパイ挑発者」あるいは「左翼を装った反革命」を意味するものとして、世界各国の共産党によって第二次大戦後も長らく使用されることになる。
1938年にフランス、ベルギー、アメリカ、オランダなど、各国のスターリニズム化した共産党内から派生した「左翼反対派」を源流とするトロツキスト・グループが参加した「第四インターナショナル創設国際会議」によって、第四インターナショナルは結成を宣言し「スターリニズムの党に代わって世界革命を目指す新しい共産党の建設」を訴える「過渡的綱領」を採択した。トロツキーは「戦争が第四インターナショナルを急速に押し上げる」と考えたが、既成の各国共産党の「トロツキスト=裏切り者」キャンペーンと各国政府の弾圧、とりわけナチス占領下の各国における過酷な弾圧のなかで、小グループに留まり続けることになった。アジアでもいくつかの支部が日本の占領下で弾圧を受け、ヨーロッパとアジアの多くのメンバーが第四インターから脱落した。しかし、第二次大戦のさなかにおいて第四インターナショナルの組織は、フランス、ベルギー、オランダなどではナチス占領下でレジスタンス運動の一翼を担い、アメリカ海軍に徴兵された船員によってマルセイユ経由でニューヨークの本部とヨーロッパのメンバーとの間で接触が保たれた。後の第四インターナショナルの指導者の一人となるベルギー人エルネスト・マンデル(1923-1995)は15歳で第四インター系の反ナチ・レジスタンス組織に参加、ナチスの捕虜となるも強制収容所から脱出するという経験を持つ。一方で、ナチス占領下のギリシャではトロツキスト派のレジスタンス戦士が共産党系の民族解放戦線(EAM)のメンバーに殺害される事件も発生している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第四インターナショナル」の詳細全文を読む




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