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秋ゆく街で : ミニ英和和英辞書
秋ゆく街で[あきゆくまちで おふ こーす らいヴ いん こんさーと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あき]
  1. (n-adv) autumn 2. fall 
: [まち]
 【名詞】 1. (1) town 2. (2) street 3. road

秋ゆく街で : ウィキペディア日本語版
秋ゆく街で[あきゆくまちで おふ こーす らいヴ いん こんさーと]

秋ゆく街で ⁄ オフ・コース・ライヴ・イン・コンサート』(あきゆくまちで オフ・コース・ライヴ・イン・コンサート)は、1974年12月20日に発売されたオフコース(当時の表記はオフ・コース)通算1作目のライブ・アルバム
== 解説 ==
本作は1974年10月26日中野サンプラザで行われたリサイタル“秋ゆく街で”を収録した、ライブ・アルバム。
5月のセカンド・コンサートを終えた後〔「オフコース・セカンド・コンサート“明日への歩み”」1974年5月5日日本青年館〕、サブミュージックを支えるために不本意な仕事を余儀なくされる彼らを、早く次の段階へ進めたかったマネージャー上野博は〔上野博は大阪で高校を卒業後、“高石音楽事務所”でシューベルツ、クライマックスのマネージャーを務めた。京都出身の杉田二郎とはこの頃からの知り合いだった。杉田から事務所設立の話を聞いたのはクライマックス解散の頃、それを機に彼らから離れることを考えていた時だった。1973年2月1日“サブミュージック・パプリッシャーオフィス”設立、以後1976年7月1日にオフコースが自らの事務所“オフコース・カンパニー”設立により独立するまで約3年間、上野はオフコースのマネージャーを務める。その後1980年4月に“オフコース・カンパニー”入社、1982年12月31日まで再びマネージャーを務める。〕、「ここまで来たらサンプラザしかない」と思ったという。上野は「ここまで来たら、もうサンプラザしかないやろう。青年館に来た800人がひとりずつ友達を連れて来れば1,600人になるんだし、ごく単純に、俺はやるべきだと思った。ところが二人に話したらイヤだって言う。そんなに人が来ない言うてな。説得したら、『じゃあやるけど、その代わりお前必ず人を入れろ。それとバック・ミュージシャンは二枚目のLP作った時のメンバーをそのまま揃えて、弦も入れる』って言うわけだ。俺も言い出した手前、了解しないわけにはいかなくなって約束したけど、経費はかかるし金はないし、どうしよう思ったわ」という。上野は東芝EMIに話を持ちかけ、この日のコンサートをライブ・レコーディングすることで総経費を負担させる。ミュージカル・ステーションの力を借りて会場を押さえ、企画は具現化していった。各方面のスタッフとも打ち合わせを重ね、曲順や構成を決めるのに初めて人の意見を交えた。9月15日にチケットが発売され、初めてポスターが作られ、駅や街に貼られた。音楽関係者宛に招待状が送られた。その結果、チケットは1,542枚売れ、雑誌やラジオ番組の招待客を加えて当日はサンプラザに大勢の人が集まった。このコンサートを作るには大勢の力を必要とした。その結果、舞台は空間を生かすように飾られ、17人のミュージシャンが演奏を助け、小田・鈴木の挙動を指示する台本も用意された。それら総ては、今までのコンサートとは違う、中野サンプラザでのコンサートに相応しいように作られた。
当日は彼ら自身のオリジナルのほか、カヴァー曲も多数披露された。A-1「WHAT'S GOING ON」はソウル・ミュージック・マニアならではの選曲と思われる鈴木がリード・ヴォーカルをとり、A-2は当時のコンサートで必ず演奏された“外国曲メドレー”。A-3〜5は、オリジナル曲以外で構成された前半のステージで披露された赤い鳥泉谷しげる吉田拓郎小椋佳斉藤哲夫井上陽水のカヴァー。曲の紹介には各ミュージシャンの印象などから、アマチュア時代の話。LMC出場での赤い鳥との出会いなどが織り交ぜられた。前半の最後は鈴木・小田が交代で“秋ゆく街で”をテーマに作った曲が披露され、鈴木のA-6「青春」は歌詞が一部書き換えられ、後にアルバム『SONG IS LOVE』〔『SONG IS LOVE1976年11月5日発売 EXPRESS ⁄ TOSHIBA EMI LP:ETP-72212〕に収録された。小田のA-7「秋ゆく街で」では演奏前に「新しい曲を歌うんですが、新しいも新しい、ホヤホヤです。昨日の夜、まだ詞が出来てなくて、メロディーと編曲は出来てたんですが、ラララで歌うわけにもいかないし。お風呂に紙と鉛筆を持って入りましてね。詞ができるまで出るのをやめようと決心して…そうして作った曲です。そのわりには、いい詞が書けました」と話していた。
小田の「今までに何回も、やっていけない。もうやめよう、と思ったことがありました。そういう時にできた曲<水曜日の午後>を聴いて下さい」という言葉に続いて後半のステージ最初に演奏されたB-1「水曜日の午後」は、オリジナル・アルバムでの小田と鈴木のデュエットに対し、ここでは鈴木がメイン・ボーカルで、小田はコーラスを担当している。後半はオリジナル・アルバム未収録のB-4「白い帽子」とB-6「キリストは来ないだろう」を含む、オリジナル曲を中心に全部で15曲〔鈴木作の「白い帽子」と小田作の「キリストは来ないだろう」は、シングル用作品として「忘れ雪」とのコンペティション用に作られたが、不採用になった曲。〕。小さいステージで演奏し慣れた曲が、レコードと同じアレンジでの初めてのライヴだった。バック・ミュージシャンとの練習が何日も重ねられたわけではなく、演奏のミスも何か所かあった。小田は「また、この歌に辿り着いてしまったんですけれども…」と、それだけ言うと、次の言葉が出てこなかった。その時、ひとりの観客が客席からステージに歩み寄り、舞台に花束を置き「オフコース万歳!」と大声で言った。緊張の中でのこのひとことが、大きな拍手を沸かせた。小田は挨拶を続けようとしたが「横浜でコンサートをした時からずいぶん長い足跡だったんですけれども…本当にこんな大きなところで…」と、ここまで言うのがやっとだった。鈴木が後を継ぎ「こんな大きなところで、たくさんの人の前で歌えて本当に嬉しいです。それでは、いつもの<でももう花はいらない>を聴いて下さい」という言葉に続いてB-7「でももう花はいらない」が演奏され、クレジットはないが「WHAT'S GOING ON」がメンバー紹介のためのリプライズとして、続けて演奏されている。アンコールで演奏されたB-8「僕の贈り物」では1番2番と歌うところを、1番で小田が途中で間違えて2番の歌詞を歌ってしまい、客席から笑いが起こった。
この日のコンサートについて、鈴木は「感激だった。私には泣けなかったのだが最後に小田と握手した時は、本当にこいつと一緒にやってきてよかったと思った。このリサイタルは我々の今日までやってきたことの総集、総まとめであったと思っている。つまり僕たちの音楽の第一期の終了ぐらいの意味合いを考えている。もっと音楽に幅を持ちたい。今までのものだと新鮮さに欠けるような気がしてはがゆい。新鮮さというのは、おそらくオフコースらしさをもっと出すこと。それが他人の持てない個性的なものになり得るんじゃないか、そこでもう一度、もっと自分を見つめ直そうなんて考えている」とし、小田は「構成や練習時間等に関する不満は、どうしても解消できなかったし、例によって声の調子も最高というわけにはゆかなかった。でも、兎に角終わった時点では、みんなも喜んでくれたし、本当に心から、さぁ、これからだという気持ちになれました。今更、コンサートは素晴らしいものだとか、コンサート活動こそ云々というような感慨はないけれど、曲を一つ創った時と同じような比重で、自分の足跡として、礎となってゆくのだと思う」と、それぞれ振り返っていた。
このコンサートの直前に発売されたシングル「忘れ雪」〔「忘れ雪」 1974年10月20日発売 EXPRESS ⁄ TOSHIBA EMI EP:ETP-20074〕は、自分達が望んでリリースした曲ではないとしてこの日、歌われなかった。そのことが後に、武藤敏史へのプロデューサー交代につながった〔プロデューサーだった橋場正敏は本作でライナーノーツを執筆、その中で橋場は「オフ・コースはヴォーカル・グループとして立派に一本立ちしました」「この日の感激を忘れることなく、日本のポップ・ミュージックの発展のため貢献して欲しいものです」と記している。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「秋ゆく街で」の詳細全文を読む




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