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神永昭夫 : ミニ英和和英辞書
神永昭夫[かみなが あきお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かみ]
 【名詞】 1. god 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

神永昭夫 : ウィキペディア日本語版
神永昭夫[かみなが あきお]

神永 昭夫(かみなが あきお、1936年12月22日 - 1993年3月21日)は、宮城県仙台市出身の日本柔道家。身長179cm。体重102kg〔Biography and Olympic Results 〕。没後九段を追贈。
== 人物 ==
東北高校在学中に柔道をはじめた点は、柔道のトップ選手としては遅い経歴で注目に値する。恵まれた体格のため、短い期間の後に格段の進歩を遂げる。東北高校在学3年の時、薦められて講道館で昇段試験を受ける。そこでなんと19人抜きの快挙をなして即日参段の認定を受けた。(神永の言葉によれば、技を掛ければ相手が飛ぶ、というくらいに力の差があったそうだ)これは当時としては破格の扱いであった。
神永はその参段を取得したすぐ後帰郷せずに意気揚々と明治大学の柔道部の稽古に参加したところ、明治大学の柔道部員に立っていられない程軽々と投げられてしまう。その明治大学の強さに感銘を受けた神永は明治大学への進学を決心する。
神永は寮を探すが、寮長が「うちでやる気があるか」とのストレートな問いに「やります!」と答え、寮に入れてもらうことになる。当時は食事も貧しく、麦米飯に汁をかけ、冷たくなったら食べられる代物ではなかったといわれているが、寮長を含め同じ食事で皆苦しい時代を共に分かち合う態度に神永は学ぶものが多かったと後に語っている。
明治大学入学後は寮(といっても、当時孤児の世話をする寮であった)生活をし、朝早くから子どもたちの食事の世話をした後、大学へ通い講義を受け、また帰宅して寮の孤児たちの世話をし、すぐさま講道館の練習に通うという厳しいスケジュールを自らに課していた。練習の帰りは石焼き芋をほお張りながら寮に帰る、というエピソードが残されている。高校から柔道を始めた神永は練習の虫であった。肝心の大学の講義中は居眠りをしていたそうだが、試験直前は持ち前の集中力で乗り切った、と本人は語っている。
明治大学卒業後、神永にはいろんな誘いがあった。柔道の専門である講道館警視庁…、しかし神永は曽根康治を慕っており、曽根に富士製鐵(現・新日鐵住金)を薦められ、渡りに船とばかりに就職する。神永にとって曽根は憧れの先輩であっただけでなく、社会人としても尊敬する存在であった。当時の富士製鐵は神永によればフランクに意見の言い合えるムードがあり、かつ、それぞれが意欲的に働いていると見えていたようだ。
逸話として柔道の東西対抗戦があり、(副将が神永、主将が曽根)(それまで20-30人の先鋒、次鋒、中堅が居る)新幹線の車内で曽根は「まさか自分に回ってこないだろうな、それまでに勝敗がついているだろうな」とひとりごちた。副将の神永は「任せてください、必ず自分で決着をつけます」と請合ってしまったが、実際会場についてみると神永は5人抜きしなければならなかった。先輩の曽根は既に柔道を引退して月日が経っている、先輩に恥をかかす事はできない、そう思った神永は死力を尽くして5人抜きを達成し、曽根が大将として登場する事なく、東軍勝利へと導いた。この時、曽根は神永の背中が痛くなるほど叩いて喜びを表現したという。
日本代表として出場した1958年世界選手権では準優勝、その後全日本選手権を、当時史上最多となる3度制覇(1960年,1961年,1964年)し猪熊功とともに日本柔道界のトップ選手として君臨した(通称:神猪時代)。猪熊功と神永は私生活でも仲が良く、「神さん」「熊さん」と呼び合う間柄でゴルフなども一緒に楽しんでいた。
柔道が初めて採用された1964年東京オリンピックで、日本中の期待を背負い無差別級で出場する事となるが直前に靭帯を断裂してしまう。10月23日の無差別級の試合当日は周囲にこの事実を隠し出場するも、決勝戦で体格ではるかに上回るオランダアントン・ヘーシンク(神永の179cm、102kgに対し、ヘーシンクは196cm、120kg)の前に袈裟固で押さえ込まれ、準優勝に終わってしまった〔。同オリンピックでは軽量級の中谷雄英、中量級の岡野功、重量級の猪熊功金メダルを獲得したが、メディアからは『日本柔道の敗北』という批判が柔道界と神永に対して浴びせられた。
神永がヘーシンクに敗れたその夜、新日鉄の同僚(正確には上司の佐々木)たちが神永の家を訪ね酒を勧めた。神永は居留守を使う事なく部屋へ招きいれ、ただ一言「ヘーシンクは強かったです」と素直に認め、それ以上は語らず悔し涙を流す事も無かったという。その翌日、神永は何事も無かったように定時に出社し、仕事を始めていた。神永の人となりを表すエピソードとして知られている。神永は常々、柔道だけではなく社会人としても全うに生きたい、という考えを有していた。
1965年網膜剥離のため現役を引退した。
1968年曽根康治の勧めで母校・明治大学の柔道部監督に就任する。初試合で失神負けをする上村春樹(当時は無名)に才能を見出し、全日本学生チャンピオンに育て上げた。日本代表監督として参加した1972年ミュンヘンオリンピックで教え子の篠巻政利が惨敗すると明治大学の監督を辞任し、柔道の関係者としては一時的に離れてサラリーマン生活に入るが、実際は柔道関係者との関係は続いていた。辞任の際、教え子には一人ずつ就職先を考えて見つけ出すなど、面倒見の良さはよく知られたところである。また学柔連と全柔連の統合の際、神永の人柄が統合に大きな役目を果たしたと言われている。
その後1976年モントリオールオリンピックで神永の教え子の上村が無差別級の金メダルを獲得し、師弟二人三脚で目指したの念願の世界一の座を奪還した。なお、この柔道世界一の座を賭けた戦いの物語はNHKドキュメンタリー番組プロジェクトX〜挑戦者たち〜」にて紹介されている。
神永は後に上村の要請を受け、日本代表の総監督に就任してバルセロナオリンピック吉田秀彦古賀稔彦を金メダルに導くも、翌1993年直腸癌のため帰らぬ人となった。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「神永昭夫」の詳細全文を読む




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