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祐天仙之助 : ミニ英和和英辞書
祐天仙之助[ゆうてん せんのすけ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [てん]
 【名詞】 1. heaven 2. sky 
: [せんと]
 (n) cent
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

祐天仙之助 : ウィキペディア日本語版
祐天仙之助[ゆうてん せんのすけ]
祐天 仙之助(ゆうてん せんのすけ、文政元年(1818年)頃 - 文久3年10月15日1863年11月25日))は、江戸時代末期(幕末)の侠客。別名山本仙之助甲州博徒の一人。
== 生涯 ==

=== 出生から博徒としての活動 ===
講談〔邑井吉瓶 『甲州侠客祐天仙之助』 弘文館 1895 〕によれば甲府元紺屋町の行蔵院・祐教(ゆうきょう)の息子とされるが真偽の程は不明である〔子母澤寛の聞き書きによれば、息子ではなく「祐教の弟子上り」となっている。(『新撰組始末記』、中央公論社、1977年 p.42)〕。
藤岡屋日記』に拠れば、甲斐国の生まれといわれ、親族は修験者であったという〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.15〕。法印の号である「祐天」を称したが、修験者としての修業は全く行わず、専ら剣術の稽古を好んだ〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.15〕。また「三人力」の豪傑であり、方々で喧嘩をしても一度として負けたことがなかったことから、自らのことを「山本勘助の末流である」と豪語していたという〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.15〕。
やがて甲府柳町の三井卯吉代貸貸元の下)となり、一人前の道楽者として名を知られるようになる〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.15〕。祐天は勝沼(甲州市勝沼)を本拠に勢力を構え、竹居村の中村甚兵衛・竹居安五郎(吃安)兄弟や、安五郎の弟分である上黒駒村の黒駒勝蔵らと敵対した〔『黒駒勝蔵対清水次郎長-時代を動かしたアウトローたち- 』 p.11〕。また、市川大門の博徒である鬼神喜之助、小天狗亀吉兄弟とは仇敵の間柄であり〔上記講談(邑井)ならびに「市川大門の伝説」『市川大門町誌』(市川大門町誌刊行委員会、1967年 pp593-595) 〕、更に駿河の清水次郎長の妻・おちょう(初代)の実兄である江尻大熊の子分を殺害し、次郎長とも敵対関係にあった〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.15〕。
甲斐国では嘉永2年(1849年)に津向文吉が捕縛され八丈島遠島となり、嘉永4年(1851年)には竹居安五郎が捕縛され伊豆新島に遠島となった〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.29〕。これにより甲斐では三井卯吉と国分三蔵・祐天仙之助に敵対する大勢力がいない一時的な空白期にあったことが指摘される〔髙橋(2015)、p.36〕。
「伊豆国韮山江川家文書」によれば、こうした状況のなか、嘉永6年(1853年)4月には国分三蔵の子分である博徒・勘七の兄である直五郎が芦川村の政右衛門・斧三郎により殺害される事件が発生した〔髙橋(2015)、p.35〕。勘七は三蔵・祐天の助力を得て報復を企て、一方政右衛門・斧三郎は武蔵の博徒・岩五郎を味方につけ、両者は対峙した〔髙橋(2015)、p.35〕。これに対して役人は博徒取り締りを強化し、勘七と祐天は甲斐から逃亡するが、両人は伊豆国の韮山代官江川太郎左衛門に捕縛されたという〔髙橋(2015)、p.35 - 36〕。
嘉永6年には竹居安五郎が新島を脱出して甲斐へ復帰し、さらに安政3年(1853年)には安五郎兄弟と黒駒勝蔵と同盟を結ぶことで、甲斐では安五郎・勝蔵の勢力と三井卯吉・国分三蔵・祐天仙之助の勢力が対峙した〔髙橋(2015)、p.37〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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