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矢嶋長次 : ミニ英和和英辞書
矢嶋長次[やじま ちょうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [や]
 【名詞】 1. arrow 
: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 

矢嶋長次 : ウィキペディア日本語版
矢嶋長次[やじま ちょうじ]
矢嶋長次(やじま ちょうじ、昭和11年(1936年)1月8日〔出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.295〕 - )は日本ヤクザ山口組直参。初代矢嶋組組長。二代目森川組組長。兵庫県明石市出身。
==来歴==
兵庫県明石市博徒矢嶋清の息子として生を享ける。博打打ちとして全国を放浪するも愛媛県今治市を本拠に森川組を構えていた森川鹿次の目に適い、昭和30年(1955年)に森川鹿次の娘(森川鹿次の妻・春子の連れ子だった)・栄子と結婚。森川邸の向かいに新居を構え、矢嶋組を結成した。
昭和35年(1960年)7月15日、三代目山口組田岡一雄組長から盃を貰い、山口組直参となった。
昭和38年(1963年)、森川鹿次の若衆・伊藤日出男と、伊藤の兄弟分・二代目原田組平原春義組長が、共同経営していたバー「マンタール」の銭勘定で、揉めた。平原春義の刺客が、伊藤日出男を刺殺した。この報復として、伊藤日出男の舎弟末崎康雄らが、平原春義を射殺した。原田組初代・原田定直は、森川鹿次の兄弟分だった。末崎康雄は、松山市に拠点を置く郷田会清水組を抜け、若衆1人を連れて、矢嶋組に移っていた。矢嶋長次は、原田組を訪ね、原田定直と話し合い、抗争を回避させた。原田組は、矢嶋組の傘下となった。
同年8月、今治市のスナックで、松山市の中西組仙波組組長らと、矢嶋組若衆・横本学と矢嶋組若衆・平沼建次の2人が、喧嘩となった。横本学と平沼建次は、仙波組組長を殺害した。矢嶋長次は、松山市三津浜の中西組・中西月龍組長の自宅を訪ね、中西月龍と話し合いを持った。矢嶋長次は、中西月龍を説得し、両組は手打ちをした。
同年、森川鹿次は、森川芸能社を起こし、責任者には矢嶋長次を据えた。当時、矢嶋長次は、神戸芸能社において、美空ひばりの四国公演の責任者になっていたからである。また、矢嶋長次は、田岡一雄が港湾荷役の仕事で上京する際には、必ず護衛を務めていた。更に電気工事業への進出を目論み、協同電設株式会社を設立。しかし松山市内での工事をほぼ独占して取り仕切っていた郷田会と対立し、昭和39年(1964年)6月に両者が衝突、第1次松山抗争が勃発した。この抗争で矢嶋組は組長以下直系構成員のほぼ全員が逮捕されるに至り、矢嶋長次不在の間は森川鹿次が今治を守っていくことになった。
警察の取調べが終わった矢嶋組組員と郷田会組員は、松山刑務所拘置所に送られた。拘置所には、松山の博徒・黒田新太郎がいた。黒田新太郎の弟・黒田善太郎は、森川鹿次の兄弟分だった。黒田新太郎の仲裁で、矢嶋長次と郷田昇は五分の手打ちをした。森川鹿次は、検察庁OBだった岡山の弁護士に依頼し、矢嶋長次の保釈申請を提出した。高松高裁は、矢嶋長次の保釈を決定した。
昭和43年(1968年)、矢嶋長次は懲役7年の実刑判決を受けて、福島刑務所に服役した。福島刑務所で、三代目共政会山田久会長と知り合った。
昭和47年(1972年)秋に矢嶋は福島刑務所から出所した。
同年、山口組若頭補佐・竹中正久と同組若頭補佐・菅谷政雄は、菅谷政雄が岡本組岡本雅博組長(後の五代目山口組若中。岡本雅博は第1次松山抗争で矢嶋長次と抗争していた)を舎弟にした件で、話し合った。岡本雅博との盃を取り持った菅谷組(組長は菅谷政雄)若頭代行が、矢嶋長次に詫びを入れて解決した。
昭和48年(1973年)、森川鹿次は、森川組の後継者を矢嶋長次にするか、森川隆にするかで悩んでいた。結局、矢嶋長次を後継者とし、森川組と矢嶋組を一本化することに決めた。矢嶋長次は、二代目森川組を名乗ることを条件に了承した。同年4月19日、矢嶋長次の二代目森川組襲名披露式が、執り行われた。波谷守之が世話人を務めた。
昭和53年(1978年)、二代目森川組組員が、侠道会森田幸吉会長のところで世話になっていた男(侠道会と盃の関係はなかった)から銃撃された。豪友会などの四国の山口組系組員が今治市に集結し、侠道会と睨み合った。山口組若頭補佐中山勝正(豪友会会長)が、矢嶋長次と森田幸吉の間に入り、両者は和解した。
昭和55年(1980年)3月上旬と中旬、竹中正久は、矢嶋長次、長谷一雄稲川会林喜一郎副会長、忠政会大森忠明会長、松正会山本真喜夫会長らを招待し、竹中組若頭補佐・大西康雄宅などで、2回に渡ってサイ本引き賭博を開いた。両日で賭け金3、4億円が動いた。
昭和56年(1981年)2月20日、森川鹿次は、肺癌で死去した。享年78。
同年7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。
同年10月25日、神戸市灘区篠原本町の田岡邸で、山口組組葬が行なわれた。喪主は、妻の田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川会・稲川聖城会長だった。服役中の山口組若頭・山本健一が、副葬儀委員長だった。
山口組の運営は、山本健一の出所まで、山広組山本広組長(後の一和会会長)、小田秀組小田秀臣組長、中西組中西一男組長(後の四代目山口組組長代行)、竹中正久、益田組益田芳夫組長(後の益田佳於)、加茂田組加茂田重政組長(後の一和会副会長兼理事長)、豪友会中山勝正会長(後の四代目山口組若頭)、溝橋組溝橋正夫組長と、田岡文子で行なわれることになった。
同年10月29日、昭和55年(1980年)3月上旬と中旬に開いた賭博により、竹中正久、竹中武、杉本明政、矢嶋長次、長谷一雄、林喜一郎、大森忠明、山本真喜夫らが、兵庫県警に逮捕された。警察は、テラ銭を1億5000万円と推定した。
昭和57年(1982年)2月4日、大阪市生野区今里病院で、山本健一は、肝硬変腎不全を併発して死去した。これを切っ掛けに山口組四代目跡目問題が浮上した。矢嶋長次は、山口組四代目に竹中正久を推すグループに属した。
昭和57年(1982年)6月5日、山本広は、組長代行に就任した。
同年6月15日午後1時、田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれた。山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、中山勝正、溝橋正夫が出席し、竹中正久の若頭就任が了承された。
昭和59年(1984年)6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。
同日、大阪市東区の松美会(会長は松本勝美)事務所で、山本広、加茂田重政、佐々木組佐々木道雄組長、溝橋正夫、北山組北山悟組長、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。
同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は、山口組の山菱の代紋を、組事務所から外した。この段階で、山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。
同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田重政は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。
同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。
同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川聖城。取持人は諏訪一家・諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家大野鶴吉総長、今西組辻野嘉兵衛組長、松浦組松浦繁明組長、大日本平和会平田勝市会長、森会平井龍夫会長、草野一家草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会津村和磨会長。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った
昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。
昭和63年(1988年)6月ごろ、山口組五代目跡目問題が浮上した。
平成元年(1989年)4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中組竹中武組長は、態度を保留した。四代目山口組若頭渡辺芳則と四代目山口組組長代理・中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。
同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。
同年5月10日、山口組緊急執行部会で、宅見勝の山口組若頭就任が内定した。竹中武は、緊急執行部会を欠席した。
同年5月18日、山口組本家で、渡辺芳則は、舎弟24人、若衆45人と盃直しを行なった。尾崎彰春の実子・尾崎勝彦ら4人が新たに直参になった。竹中武、矢嶋長次、牛尾組牛尾洋二組長、森唯組森田唯友紀組長は欠席した。
同年5月27日、渡辺芳則は、山口組最高顧問を新設し、中西一男を最高顧問に据えた。渡辺芳則は、英組・英五郎組長、倉本組倉本広文組長、黒誠会前田和男会長、弘道会司忍会長、芳菱会滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。渡辺芳則は、益田啓助を舎弟頭に据えた。渡辺芳則は、章友会石田章六会長、大石組大石誉夫組長、西脇組西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽宗輝桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり、山口組総本部長となった。二代目吉川組野上哲男組長は、山口組総本部副本部長となった。益田組益田佳於組長、小西一家小西音松総長、伊豆組伊豆健児組長は、顧問に就任した。新人事には、宅見勝の意向が強く反映された。
同年6月4日、岸本才三、西脇和美、神戸市の佐藤組佐藤邦彦組長が、竹中武を訪ね、「竹中正久の位牌と仏壇を受け取ってもらいたい」と頼んだ。竹中武は竹中正久の位牌と仏壇を受け取った〔通常、先代の位牌と仏壇は、当代が管理する〕。
同年6月5日、山口組定例会で、竹中武、矢嶋長次、牛尾洋二、森田唯友紀の山口組脱退が発表された。
同年8月、矢嶋長次はヤクザから引退し、山田忠利が二代目矢嶋組を継いだ。山田忠利は、山口組に復帰した。
2013年2月5日発売のアサヒ芸能(3/14号)にて、久々に表舞台に姿を現し、本誌のインタビューに答えている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「矢嶋長次」の詳細全文を読む




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