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田川誠一 : ミニ英和和英辞書
田川誠一[たがわ せいいち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [まこと]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 
: [いち]
  1. (num) one 

田川誠一 : ウィキペディア日本語版
田川誠一[たがわ せいいち]

田川 誠一(たがわ せいいち、1918年6月4日 - 2009年8月7日)は、日本政治家衆議院議員(11期)。元神奈川県会議員田川誠治の長男。
新自由クラブ代表(2代)、進歩党代表。
== 経歴 ==

*神奈川県横須賀市出身。田川家は大地主家系1941年慶應義塾大学法学部卒業後、朝日新聞社に入社し、通信部及び政経部記者、同社労組委員長等を務める。
同社退社後、松村謙三衆議院議員秘書を経て、1960年に衆議院選挙に初当選。以後旧神奈川2区から11回連続当選。
*自由民主党時代は「ハト派」議員として活動し、科学技術政務次官などを歴任。後に旧神奈川2区から小泉純一郎が当選したが、選挙区内の郵政関係各団体は田川支援していたため、小泉と郵政各団体との関係は悪化したとされる。
*1976年河野洋平(田川の従弟)、山口敏夫らと共に自民党を離党し、新自由クラブの結成に参加。西岡武夫が路線対立で離党した後、その後任として幹事長に就任。
1979年、総選挙敗北で新自由クラブ代表を辞任した河野に代わりに第2代代表に就任。
四十日抗争の後、当時首相であった大平正芳が、首班指名で新自由クラブの協力の見返りとして入閣させようとしたが、自民党内の反発で実現しなかった〔第2次大平内閣発足時に文部大臣のポストが空いていたが、幻となった(文部大臣には自身と当選同期で大平派の谷垣専一が就任)。〕。1983年、総選挙で過半数割れとなった自民党と連立内閣を組み、第2次中曽根内閣自治大臣に就任。「張り切り外様大臣」「田川曽根内閣」と揶揄されたこともあった。
*1986年、自民党が衆参ダブル選挙に大勝し、新自由クラブとの連立を解消。選挙での退潮に歯止めがかからない新自由クラブで、河野、山口らは党を解散して自民党復党への道を選択するが、田川だけは「死んでも自民党には帰らない」と、ひとり自民党復党を拒否し、進歩党(1987年〔「元新自由ク代表田川誠一氏死去」『日本経済新聞』2009年8月8日、14版、39面。〕)を結成した。
*進歩党はクリーンな政治の実現を訴えたが、1989年、参院選比例区の名簿順位決定をめぐる党内問題が表面化し、金銭疑惑を追及する若手党員グループが政治団体「進歩党をまじめに考える会」を結成、機関紙「進歩維新」を発行するなど活発な活動を展開して田川ら党執行部と対立した。東京地裁や横浜地裁で訴訟沙汰に発展したことで、結果的に党勢拡大にブレーキがかかり、離党組は進歩自由連合を結党、完全に袂を分かった。
*1993年、総選挙に出馬せず議員引退を表明し、進歩党も解散〔。日本新党から出馬した永井英慈を事実上の後継として支援した。
*2009年8月7日、老衰のため死去〔田川誠一氏死去 毎日新聞 2009年8月7日〕。享年92(満91歳没)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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