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王浚 : ミニ英和和英辞書
王浚[おうしゅん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

王浚 : ウィキペディア日本語版
王浚[おうしゅん]
王浚(おうしゅん、252年 - 314年)は、中国西晋末から五胡十六国時代将軍政治家。字は彭祖。父は武帝の側近の王沈で母は趙氏。庶子だったが父の正室に子がなかったので嗣子となった。妻は崔毖〔崔琰の曾孫にあたる。後に王浚は岳父を東夷校尉とした(『資治通鑑』87巻晋紀9)。〕の娘。
== 生涯 ==
恵帝の治世下、賈氏政権下では東中郎将となり、許昌に派遣された。賈氏が没落すると寧朔将軍・都督幽州諸軍事となり、城に依拠した。303年鮮卑族の段部の長段務勿塵に娘を嫁がせて同盟し、幽州での地盤確立に努めた。
八王の乱に際しては中立の立場を維持し、領内の人々の参戦を禁じた。しかし、成都王司馬穎が王浚を討とうとして和演を派遣すると和演を殺し、304年8月に烏桓・鮮卑段部・并州刺史司馬騰(東海王司馬越の弟)と結んでを占領した。以降は司馬越支持を鮮明にし、八王の乱後に恵帝が洛陽に帰ると、驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事・幽州刺史となった。
306年懐帝が即位すると司空に任ぜられた。匈奴の首長で漢(前趙)の皇帝劉淵の部将石勒冀州をめぐり攻防を繰り広げ、当初は段部の支援を得て優勢であった。311年6月、永嘉の乱で漢が洛陽を占領すると王浚は尚書令と称し、皇帝に即位しようとしたが、反対する臣下を誅殺したため、人望を失った。
312年末、武将の王昌、段務勿塵の息子段疾陸眷らに命じて襄国の石勒を攻撃させた。しかし、石勒は段務勿塵の甥段末波を捕らえて段部と講和し、王浚との離間を図ったため王浚と段部は衝突、烏桓と鮮卑の支持を失い急速に没落していく。翌年には段部を討とうとして鮮卑の拓跋猗盧慕容廆に命じて攻撃させたが失敗した。
314年、石勒の帰順を信じて迎え入れたが、捕らえられ斬られた。幽州は石勒が獲得し、東に勢力を拡大していった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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