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無神論論争 : ミニ英和和英辞書
無神論論争[むしんろんろんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [む]
 【名詞】 1. nothing 2. naught 3. nought 4. nil 5. zero
無神論 : [むしんろん]
 (n) atheism
: [かみ]
 【名詞】 1. god 
: [ろん]
 【名詞】 1. (1) argument 2. discussion 3. dispute 4. controversy 5. discourse 6. debate 7. (2) theory 8. doctrine 9. (3) essay 10. treatise 1 1. comment
論争 : [ろんそう]
  1. (n,vs) controversy 2. dispute 

無神論論争 : ウィキペディア日本語版
無神論論争[むしんろんろんそう]

無神論論争(むしんろんろんそう、)とは、 1799年におきたドイツ観念論の哲学者フィヒテイェナ追放をめぐる一連の騒動のことをいう。当時、無神論者として追放された場合、それは学者としての命を絶たれることに等しいものであり、ましてや当時のドイツ精神文化の中心地イェナから追放されるとなると、ドイツはおろか近隣諸国にでも居場所を失ってもおかしくないほどの非常事態であった。
== 経緯 ==
処女作『あらゆる啓示批判の試み』がカントに認められて、イェナ大学教授として迎えられたフィヒテは、大学において知識学、道徳論などの講義を行い、評判を呼びまたたく間に著名な哲学者となった。それまでの貧困との闘いとの生活ともうってかわって、暮らしも豊かなものになっていった。一方フィヒテ自身は、『フランス革命論』などを執筆し、急進的な民主主義者として(当時は現在から見れば保守的な考えが支配的だった)周りから注意の目でもって見られていた。また決闘の禁止、暴力的な学生団体の解散など、熱心すぎるともいえる教育活動は一部不埒な学生から反発を買うものであった。これから察してもわかるようにフィヒテ自身、実直で頑固な性格の持ち主であった。この性格が、反発者を必要以上に増やし、後に「無神論者」と攻撃される火種を作ったともいえる。
そのようなイェナでの生活が数年続き、1798年の暮れにフィヒテが主宰する『哲学雑誌』に同僚フリードリッヒ・カール・フォルベルクがカント哲学を発展させて『宗教概念の発展』という論文を掲載することになった。しかし、内容がカント哲学の理解とは異なるため、フィヒテもこれを補完するという意味合いも込めて『神の世界統治に対する我々の信仰根拠について』という論文を同時掲載することとなった。内容は、フィヒテによると神とは道徳的世界秩序であり、信仰とは道徳的世界秩序に対する信仰にほかならない。また、この道徳的世界秩序抜きになにかしらの実体としての神を考えることはできないし、矛盾であるとしたのである。この実体としての神を認めないという点が無神論であるという指摘をした、匿名で書かれたパンフレット(意見書)が論文が世間に公開される前に出回り、担当当局がこれに反応した。(少なくともフィヒテは神は存在しないといったことは述べていない)
当局(ドレスデン宗教局)は、ただちに調査をし、ザクセン選帝侯も該当雑誌の没収を命じ、問題が表面化した。フィヒテはこれに対し「公衆への訴え」という反論書もかいた。当時は政治家でもあったゲーテも政府の公正さと冷静さの欠く対応を批判し、シラーヴィーラントなどもフィヒテを擁護した。
その後のフィヒテの答弁の中で、自分の論文は終始一貫して非の打ち所がなく、スピノザ主義で、自分よりもずっと無神論的な学者(ヘルダーのこと)がいるのに、なぜ自分だけが責められるのかという不満をさらけだす。
さらに、友人の学者フォイクトにうちあけた私信でフィヒテ自身はもしこのような不満が公然と通るのであれば、大学教授の辞職でもって抗議する。この抗議に賛同してくれている同僚も多いので、彼らとともにあらたな研究所を作るだろうとする旨を打ち明けた。このフィヒテの自信満々とも言える私信は、あっという間に広まり、選帝侯から処分しなければ、イェナ大学の入学を禁止にするという脅しもあって、とうとう大学当局も、フィヒテの解雇を決定した。(なお、この時点で不服ながらも非を認める旨を示していれば、また変わった判断がされたかもしれない)。
この決定の通告に対しても、学問の自由と自分の信念を貫き通したかったフィヒテは決して猛然と反論せず、学生たちの嘆願署名も、もはや焼け石に水であった。このような一貫した姿勢に人々は心証を悪くし、かつては行動をともにしてくれる約束をしてくれた同僚も離れてしまい、フィヒテの味方をしてくれるものはもはやおらず、フィヒテはイェナを去る以外道は残されていなかった。1799年の4月のことであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「無神論論争」の詳細全文を読む




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