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浪之花教隆 : ミニ英和和英辞書
浪之花教隆[はな]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [はな]
 【名詞】 1. flower 2. petal 

浪之花教隆 ( リダイレクト:浪乃花教天 ) : ウィキペディア日本語版
浪乃花教天[なみのはな かずたか]
浪乃花 教天(なみのはな かずたか、1969年3月19日 - )は、青森県南津軽郡浪岡町(現:青森市)出身で二子山部屋に所属した元大相撲力士。本名は工藤 和博(くどう かずひろ)。現役時代の体格は178cm、135kg。最高位は東小結1995年3月場所)。得意手は突き、押し。
== 来歴 ==
農家の三男として生まれ、浪岡町立野沢小学校時代は相撲大会で常に優勝し、3年生の時には4年生の部で優勝するなど活躍した。浪岡中学校時代は相撲から離れて陸上部で活躍し、将来は体育教員を志していた。しかし、中学校3年の時に家へ訪ねて来た二子山親方(元横綱初代若乃花)から勧誘され、中学校卒業後に二子山部屋へ入門。1984年5月場所で初土俵を踏んだ。
体格は良くなかったが持ち前の負けん気と稽古が実り、1990年11月場所で新十両に昇進。その後、一時幕下に落ちたものの盛り返して、1992年9月場所で新入幕を果たした。4度目の入幕となった1994年11月場所では、10勝5敗と2桁勝利を記録し、生涯唯一の三賞となる敢闘賞を受賞。なお同場所では、浪乃花が千秋楽の取組でもし負けていたら、史上初の三賞受賞者無しになるところであった。
1995年3月場所では、最高位となる東小結に進んだ。だが、6勝9敗と3点負け越し、三役経験はこの場所のみで終わっている(浪乃花は、三役以上との対戦経験が一度もないまま小結に昇進したが、これはとても珍しい事例であった)〔学坊の時、「二子山の定年後に藤島部屋(当時)に接収されることで大部屋となるので対戦で有利になる」と部屋関係者に口説かれたといい、まさに大部屋の利が物を言う形での三役昇進であった。〕。突き押しを得意手とした取り口は、志に溢れて気風が良く、特に相手をぐっと睨みつける厳しい仕切りには人気があった。この所作は横綱・千代の富士(現・九重親方)を髣髴とさせ、相撲雑誌で「ミニウルフ」とニックネームが付けられた事がある。
1996年3月場所での魁皇戦に於いて左肘を痛め、この負傷が致命傷となって同場所から6場所連続負け越し。これにより、1997年3月場所では幕下にまで陥落してしまった。そして、同場所初日の取組を最後に27歳の若さで引退。年寄名跡を取得できなかったため、引退後、直ちに日本相撲協会から去った。
その後料理店を経営し、東京都港区西麻布(最寄駅は乃木坂)で、ちゃんこ鍋料理の店「天海地 」を経営していた。2013年3月22日を持って西麻布店を閉店し、4月上旬から門前仲町で新たな「天海地」を経営している。またその一方で、J Sports ESPN劇戦!大相撲』の解説者も務めている。尚、「天海地」の店名は現役時代「工藤」の本名から「天下一」を捩って、自身で考えていた四股名だったが、師匠に申し出る前に「浪ノ花」への改名届が出たと言うエピソードがある。その他、現役後半の「浪之花教隆」は現役時代、仲の良かった同門の幕下力士で廃業後に早世した親友の名前を盛り込んだものだと言う。
元横綱・初代若乃花の二子山親方が育てた最後の幕内力士で、師匠交代後に三役昇進を果たしたが、同部屋からの最初の関取は二子岳、最後の関取は浪之花(当時・浪乃花)で奇しくも、共に最高位は小結である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「浪乃花教天」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Naminohana Kazutaka 」があります。




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