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永田洋子 : ミニ英和和英辞書
永田洋子[ながた ひろこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

永田洋子 : ウィキペディア日本語版
永田洋子[ながた ひろこ]

永田 洋子(ながた ひろこ、1945年昭和20年)2月8日 - 2011年平成23年)2月5日)は、日本のテロリスト新左翼活動家。連合赤軍中央委員会副委員長を務めた。複数のリンチ殺人死刑が確定していたが、執行前に脳腫瘍のために東京拘置所で獄死した。
== 経歴 ==
東京都本郷区元町(現・文京区本郷)出身。生まれた2ヵ月後に横浜市港北区綱島に疎開し、小学校4年までは父親が勤務する電機会社の寮に住んでいた。調布学園中学校・高等学校(現・田園調布学園中等部・高等部)を経て1963年共立薬科大学(現・慶應義塾大学薬学部)に入学、在学中に共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織(社学同ML派)の活動に参加するようになり、1964年5月に社学同ML派に加盟する。1967年の卒業後は慶應義塾大学病院の研究生となり、同病院の薬局で無給の医局員を務めた後、東京都品川区の三水会病院や済生会病院に勤務。この間、1967年5~6月頃、かつて社学同ML派に参加していた縁で社学同ML派元幹部河北三男と川島豪による分派「警鐘」にオルグされ参加、女性解放問題やボーナス団交などの労働運動にかかわり一定の成果を挙げるが、その後組織からの指示と本人の希望で仕事をやめ活動に専念するようになる。
その後、「警鐘」と日本共産党を除名された神奈川県の親中国派が合同した日本共産党(左派)神奈川県委員会を経て、河北三男と川島を指導者とする日本共産党(革命左派)神奈川県委員会のメンバーとなる。革命左派(京浜安保共闘)では、石井功子、川島陽子とともに「京浜安保のおんな3戦士」と呼ばれた。「警鐘」に端を発する河北三男、川島グループの活動家としては古参に属するが、有力メンバーとは見なされておらず、正式な党員として認められたのは1969年4月の革命左派結成時とかなり遅かった。
1969年末の川島豪議長らの逮捕以後は、獄外指導部のメンバーの一人となる。1970年9月には指導部の投票により最高指導者となる。当時、永田は最高指導者にふさわしい人物とは見なされていなかったが、機関紙が書ける、重役についていないので余裕がある、(他のメンバーが)自分はやりたくない、といった理由で最高指導者に選出された。指導部は引き続き集団指導体制であった。永田はその後、指導部の最高責任者として上赤塚交番襲撃事件真岡銃砲店襲撃事件に関与。印旛沼事件では元同志2人の殺害を指示したが、その際薬学の知識を生かして睡眠薬を手配・調合した。永田は印旛沼事件に際して、「中核派ですら内ゲバで人を殺しているんだから」と言いこれを合理化したことがあったという〔坂口弘はこの発言を永田の動揺のあらわれとしている。〕。
1971年より共産主義者同盟赤軍派との連携を指導し、7月には両派の合同による「連合赤軍」(当初は「統一赤軍」)を名目上結成。12月には革命左派獄外指導者として川島豪(獄中)との絶縁を宣言、赤軍派と「新党」を結成する。「新党」では副委員長に就任し、委員長の森恒夫に次ぐナンバー2となる。山岳ベース事件では同志12名がリンチ殺害されたが、この指示はもっぱら森によるとする見方と森と永田によるものとする見方がある(もっぱら永田によるものとする見方もあり、第一審判決もそのようなニュアンスの強いものであったが、これらについては女性への偏見に基づいているとの批判が関係者及び外部からなされている)。
1972年2月17日、森と共に一度下山した後活動資金を持ってキャンプに戻ろうとしたところ、山狩り中の警官隊に発見され、激しく抵抗をした末、揃って逮捕された。

逮捕後、連合赤軍がなぜ同志12名の殺害という最悪の失敗に終わったのかを考え、連合赤軍を総括するため、川島豪(獄中)率いる革命左派に復帰する。しかし、川島による連合赤軍の「反米愛国路線の放棄」という総括に対しては、反米愛国路線に内実など無かったとして反発。連合赤軍事件のより深い考察を主張していた赤軍派議長の塩見孝也(獄中)寄りの立場を取るが、この塩見との接触を理由に革命左派から「永久除名」される。その後は塩見と連合赤軍総括を共にし、1974年の塩見による赤軍派プロ革派の結成に、赤軍派出身の植垣康博坂東國男らと共に参加する。1980年には、連合赤軍事件を森・永田ら連合赤軍指導部の資質の問題と主張するようになった塩見と決別し、以降植垣と共に連合赤軍総括に取り組む。1982年発表の自著『十六の墓標』の序文では、川島豪と塩見孝也について、「(川島も塩見も)どちらも既に行っていた自分たちの総括を受け入れるように私をオルグするだけで、連合赤軍問題の事実報告を要求しようとはしなかった。」と書いている。
1983年の判決(死刑)では山岳ベース事件は永田が主導したものとされ、その原因を永田の「不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心」「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」だとした。永田は事実誤認があるとしてただちに控訴を決定、永田と歩調を合わせていた植垣、支援者の説得で控訴を決意した坂口と共に控訴する。判決は控訴審・上告審でも覆されなかったが、永田は判決を受け入れないことを表明し続けた。なお、連合赤軍最高指導者の森恒夫(自殺)は印旛沼事件の圧力等を理由に同志殺害の原因は永田や革命左派だとしたが、具体的な同志の摘発・殺害については自身の理論を述べている。永田に次ぐ地位にあった坂口弘は事件は森主導で永田は森に追随したとしている。
脳腫瘍を患いながらの裁判の末、1993年2月19日に最高裁判所死刑確定判決2001年再審請求していたが、東京地裁は2006年11月28日に請求を棄却する決定をした。弁護人は刑事訴訟法の規定に従い、死刑を執行しないよう法務省に申し入れていた。
永田は再審請求棄却の半年前に脳腫瘍で倒れ、脳腫瘍の手術以降は寝たきりの状態になっているとされ、2008年に行われた世界死刑廃止デーの記念イベントで、拘置先で危篤状態になっていることが報告された。晩年は会話ができない状態となり、2011年2月5日に東京拘置所で脳萎縮、誤嚥性肺炎のため65歳で獄死した〔永田洋子死刑囚が死亡 連合赤軍事件で大量リンチ  47NEWS 2011年2月6日〕〔連合赤軍事件の永田洋子死刑囚が死亡  日本経済新聞 2011年2月6日〕〔連合赤軍事件の永田洋子死刑囚が死亡  スポニチアネックス 2011年2月6日〕〔連合赤軍リンチ事件の永田洋子死刑囚が死亡 65歳  スポニチアネックス 2011年2月6日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「永田洋子」の詳細全文を読む




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