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正珠爾扎布 : ミニ英和和英辞書
正珠爾扎布[ただし, せい, しょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [ぬの]
 【名詞】 1. cloth 

正珠爾扎布 ( リダイレクト:ジョンジュルジャブ ) : ウィキペディア日本語版
ジョンジュルジャブ[ぬの]

ジョンジュルジャブ(漢字:正珠爾扎布1906年 - 1967年11月)は、満州国軍の軍人。モンゴル人。満蒙独立運動で戦死したバボージャブの三男で、日本で教育を受けたのち軍人となる。1945年8月のソ連参戦後、ハイラル市郊外で叛乱を起こし日系軍官を多数殺害した。最終階級は陸軍少将。日本名は“川島成信”、“田中正”。ジョンジュルジャップとも。
== 経歴 ==

1906年遼寧省彰武県大冷営子に生まれる。父親のバボージャブ(巴布扎布)は彰武県の巡警局長を務めていたが、1912年に一家を連れてボグド・ハーン政権下のモンゴルのフレー(現・ウランバートル)へ渡り、1916年の第二次満蒙独立運動で挙兵して戦死した。父親の死後、川島浪速によって一家と共に旅順へ送られ、日本第二高等小学校で勉強した〔旅順では、漢名「韓信宝」と名乗った。〕。1922年4月、日本へ渡り東京府立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)に入学した。ジョンジュルジャブは中学では「川島成信」〔成は成吉思汗(チンギス・カン)から、信は上杉謙信から取り自分で名付けた。〕と名乗った。この当時、日本ではバボージャブの名声が高まっており、ジョンジュルジャブはその子息として持てはやされ、多くの日本軍将校や右翼的人物らと知り合った〔牧南(2004年)、117-118頁。〕。1925年陸軍士官学校砲兵科に入学し、士官候補生となって野砲兵第1連隊に配属された。1926年10月、本科へ入り中華隊第19期で学んだ〔中華隊第19期は陸士第40期に相当し、ジョンジュルジャブは漢名「韓紹宏」を名乗った。〕〔牧南(2004年)、119-120頁。〕。
1928年、士官学校を卒業したジョンジュルジャブは南満州鉄道に入社し、鄭家屯事務所の職員として日本名「田中正(たなか ただし)」を名乗って働くことになった。ジョンジュルジャブは通訳や事務の仕事の合間にモンゴルの資料や文献を読み、内モンゴルの王公や著名人と親交を深めた〔牧南(2004年)、121頁。〕。1931年9月に満州事変が勃発すると、兄のカンジュルジャブ(甘珠爾扎布)と蒙古青年・知識人らを集めて蒙古独立軍を組織した。ジョンジュルジャブは連絡処長を務め、関東軍との折衝を担当した〔森(2009年)、105-106頁。〕。満州国成立後、ジョンジュルジャブは警察官教育を受け、公安局警務科に務めた。のち蒙政部事務官を務め、蒙政部の蒙古総督制への昇格を計画したが成功しなかった〔牧南(2004年)、127-128頁。〕。1935年には満州里会議に参加、通訳と連絡を担当した〔牧南(2004年)、42頁。〕。
1937年6月、治安部の警務司検閲科係長になったジョンジュルジャブは、旧知である治安部顧問野田又雄大尉と再会した。野田は軍人になるよう奨め、ジョンジュルジャブは上校(大佐)の階級と兄の昇進を条件とした。1937年11月1日、ジョンジュルジャブは騎兵上校に任命された。治安部で2か月ほど軍の状況を勉強し、1938年1月、興安軍管区の参謀処長に任命された〔牧南(2004年)、131-132頁。〕。38年10月、中央陸軍訓練処第2専科に入り、途中ノモンハン事件で中断するが、翌年11月に専科を卒業した。しかしその頃には日本の時局が緊迫化し陸軍大学校へ進むことはできなかった〔牧南(2004年)、134頁。〕。
1939年ノモンハン事件が発生し、ジョンジュルジャブはその戦闘での活躍が評価され武功章を与えられた。しかし、戦場で興安軍が壊滅敗走するのを見てモンゴル兵に失望したジョンジュルジャブは、顧問部に対して徴兵制の実施や既成将校の淘汰などを提案した〔牧南(2004年)、135-236頁。〕。11月に専科を卒業すると、興安師(のち第2師)の歩兵団長に任命された〔。1940年4月に実施された第9軍管区第2師の特命検閲では統制官をつとめ、同年、満州国に国兵法が施行されると徴兵官となった〔。
1943年3月、第10軍管区参謀長少将に任命された〔牧南(2004年)、137頁。〕。太平洋戦争が激しくなってきたころには、長兄のノウナイジャブ(濃乃扎布)がモンゴル人民共和国で対満工作を行なっているという情報が第10軍管区に入ってきている。ジョンジュルジャブと周囲の一部日系軍官との折り合いは次第に悪くなり、1944年4月には日系軍官との口論から辞職騒動にまで発展した〔牧南(2004年)、139-141頁。〕。
1945年8月9日、ソ連の参戦に対し、第10軍管区(駐ハイラル)は興安嶺でソ連軍の侵攻を阻止するよう命令を受けた。8月10日、経由地点のシネヘン(錫尼河)に到着すると、ジョンジュルジャブは日系軍官を殺害してソ連軍へ投降することを決意し、計画を部下のモンゴル系軍官たちに伝えた〔牧南(2004年)、150頁。〕。8月11日午前10時頃、各隊で一斉に叛乱が起こり、日系軍官は次々に殺害された(29名)。ジョンジュルジャブと第10軍管区約2,000名は、8月13日にソ連軍に投降した〔牧南(2004年)、155頁。〕。
その後、ジョンジュルジャブはハバロフスクの収容所へ収監され、1950年8月に撫順戦犯管理所に移された。思想改造を受けた後、1960年11月28日の第2回特赦で釈放されハイラルの国営営林場で労働者となった。1963年から65年の間にかけてハイラル市は冬になるとジョンジュルジャブに手記を書かせていた(『わが半生の思い出』、『父・巴布扎布のこと』など)。1966年、文化大革命が始まるとジョンジュルジャブは反省室に隔離された。1967年11月中旬のある夜、ジョンジュルジャブは営林場の菜園にある樹で首を吊って自殺した〔牧南(2004年)、167-169頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョンジュルジャブ」の詳細全文を読む




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