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櫻井哲夫 : ミニ英和和英辞書
櫻井哲夫[さくらい てつお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さくら]
  1. (oK) (n) (1) cherry blossom 2. cherry tree 3. (2) decoy 4. fake buyer 5. shill 6. (3) hired applauder
: [い]
 【名詞】 1. well 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

櫻井哲夫 : ウィキペディア日本語版
櫻井哲夫[さくらい てつお]

櫻井(桜井) 哲夫(さくらい てつお、1957年11月13日 - )は、東京都出身の日本ベーシスト慶應義塾大学卒業。血液型A型。日本を代表するフュージョンバンド、カシオペアにかつて在籍していたオリジナルメンバー。脱退後はシャンバラジンサクを経て、現在はソロ・アーティストとして活動している。
== 来歴 ==
4歳でクラシック・ピアノを始め、中学生の時にベースを始めて、バンド活動も開始。慶應義塾志木高等学校在籍時における校内でのバンド活動はハードロックを趣向としていた。また、学校以外の演奏活動の場として、後にプリズムを結成する和田アキラ久米大作ら同年代の者たちも居た都内のロック演奏のコミュニティにも所属。そこで櫻井が高校二年生の時に高校三年生であった野呂一生と出会って意気投合し、ベック・ボガート & アピスを目標として都内の練習スタジオでセッションしだすようになる。これが後に結成するカシオペアの始まりとなる。この頃、野呂はすでに作曲活動し始めていて、カシオペアの初期アルバムにも収録される曲を次々と櫻井に披露し、櫻井は野呂の才能にいっそう惚れ込むようになった。野呂がいくつかのセミプロバンドを渡り歩いた後、その自作曲を元にした櫻井とのバンド活動にシフトが置かれるようになる。ボーカルを従える時期などもあったが、野呂と櫻井以外は常にメンバーは流動的で、次第にハードロックやファンクをベースとして、そこにジャズのエッセンスが加えられたインスト音楽にバンドの方向性は持って行かれた。
バンドの名称をカシオペアと改めた後、櫻井の提案で1976年にカシオペアは日本楽器製造(ヤマハ)東京支店主催のアマチュア・バンド・コンテスト「EastWest '76」に出場し、決勝大会まで進出したことでアマチュア・シーンに広く名前が知られるようになる。翌年、カシオペアは向谷実を入れて再出場。決勝大会に進出し、優秀グループ賞を獲得するなどしてこれがプロへの足がかりとなる。1979年5月25日、日本におけるフュージョンブームの真っ直中、カシオペアはアルバム『CASIOPEA』でレコードデビューした。
当時流行だったこともあり、デビュー時からスラップ奏法(チョッパー奏法)を多用。カシオペアはデビューアルバム『CASIOPEA』に付けられたキャッチコピー「スリル、スピード、スーパー・テクニック」の表現通り、超絶技巧でアクロバティックな演奏スタイルのなか、リズムを支える櫻井はそれに加えてさらに安定感あるプレイでデビュー時から定評があった。派手さと安定感を両立させた演奏スタイル、さらにメイン・コンポーザーである野呂一生の作・編曲においてメロディ楽器と同等に目立つことが出来たベースは、多くのアマチュア・ベーシストの憧れとなり、須藤満徳永暁人日野賢二など後にプロ・ベーシストとなっていくフォロワーも生んだ。
櫻井はカシオペアでのバンド活動と併行して、慶應義塾大学に進学。デビュー後の1979年秋、二足のわらじを履く日々を送っていたある日、在籍していたゼミ(商学部佐野陽子研究会)の仲間のツテで同大学のジャズのビッグ・バンド、慶應義塾大学ライトミュージックソサエティから就職試験でライブに出演出来ないベーシストの代役を頼まれて受諾。そこで出会ったのがそのビッグ・バンドに在籍していたドラマーの神保彰だった。当時のカシオペアはドラマー・佐々木隆が脱退することが決定事項となっていて、神保に卓越した才能を見いだした櫻井はカシオペアの次期ドラマーに推薦し、カシオペアはメンバーとスタッフ総出で神保を口説き落としてメンバーに迎え入れた。
1982年、カシオペアは本格的な海外活動開始していく前に、当時の所属レコード会社、アルファレコードの計らいで、メンバーがバラバラで世界の好きなところに一人旅に出掛けて海外渡航経験を積むことにした。櫻井はブラジルを選んだ。1980年代当時のカシオペアのメンバーは皆、普段聴く音楽にラテン音楽の一ジャンルであるブラジル発祥のMPBを趣向としていて、とくに櫻井は傾倒していたからである。ブラジル音楽好きのその熱意が買われて、1986年には音楽誌『ADLiB』のインタビューアーとして来日公演中だったブラジル人歌手のジャヴァンに対面。その際、櫻井は自身が制作中だった初のソロアルバム『DEWDROPS』のデモテープを聴かせたところ、収録曲の一つ「In The Distance」がジャヴァンに気に入られて、翌1987年発表のジャヴァンのアルバム『君の瞳は海』にもカバーされることになった。また、この年、カシオペアはジルベルト・ジルの招きによってブラジルにライブツアーに出掛け、現地でジャヴァンと再会を果たし、この年に制作するアルバム『PLATINUM』にゲスト参加することも約束されて適うことになった。
1989年、カシオペアのメンバー同士だった神保と結成したボーカルユニット、シャンバラの処遇をめぐってカシオペア内でリーダーの野呂、向谷実と対立。結果、神保と共にこの年限りでカシオペアを脱退してしまう。翌1990年にふたりはインストルメンタル音楽のユニット、ジンサクを結成。活動当初はラテン音楽をモチーフにフュージョンシーンでの活動を行い、その後はフュージョンのジャンルを超えてベースドラムによる多岐にわたった音楽性を提示しつつも1998年にユニットを解消。以降はソロアーティストとしてリーダープロジェクトでの活動の他に数々のセッションに参加している。なかでも世良公則野村義男らとは、1997年にジンサクが番組ホストを務めたスタジオライブセッション番組「THE MINT CLUB」(JICが運営する専門チャンネル、地球の声と後にMONDO 21でも放送)でゲストに迎えて以来意気投合し、現在に至るまで頻繁に共演するようになっていく。
2009年、ソロアルバム『MY DEAR MUSICLIFE』の制作がきっかけとなり、野呂一生と共にデビュー30周年記念としてアコースティック・デュオ、PEGASUSが結成され、7月から12月にかけてライブ活動を行った。2012年、旧知のマーカス・ミラーをゲストに迎えるなどして、ベースをフィーチャリングしたソロアルバム『TALKING BASS』を制作。また近年はジャコ・パストリアストリビュート・ライブを毎年のジャコの命日(9月21日)に行っており、2012年は全国ツアーも行われた。そして2013年にはライブの参加メンバーをバンド化させた櫻井哲夫JACOトリビュート・バンドとしてアルバム『IT'S A JACO TIME!』が制作された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「櫻井哲夫」の詳細全文を読む




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