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桐島洋子 : ミニ英和和英辞書
桐島洋子[きりしま ようこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きり]
 【名詞】 1. paulownia tree 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

桐島洋子 : ウィキペディア日本語版
桐島洋子[きりしま ようこ]
桐島 洋子(きりしま ようこ、1937年7月6日 - )は、日本のエッセイストノンフィクション作家。長女は歌手・女優の桐島かれん、次女はエッセイストの桐島ノエル、長男は写真家の桐島ローランド
一時期、経済学者の青木昌彦と事実婚関係にあった〔『立花隆の書棚』p.377〕。
== 人物・来歴 ==
東京生まれ。父は三菱財閥に勤務していたが、元来は画家志望で、やはり三菱の重役だった祖父の命令で跡継ぎになった。教養ある文化人だった父から様々なことを教わった。桐島のHPで父母の日記等から、桐島家の歴史についての連載をした。
祖父の死後、父は上海に渡って新聞社を経営することになり、家族も同行した。1945年、敗戦の半年前に一家で日本に戻る。戦中戦後と両親は定職に就けず、家財を売り続け生活をし、神奈川県葉山で育つ。
清泉女学院中学都立駒場高校卒業。高校卒業後、文藝春秋新社(後の、文藝春秋社)に入社。1957年、20歳で雑誌『文藝春秋』の記者となる。
1962年、ダイビングで知り合った26歳年上のアメリカ人の退役海軍中佐(世界最深潜水記録を記録したこともある、ダイバーの草分けだった)と熱愛関係となる。相手は婚姻中で妻があったが妊娠し、1964年に「未婚の母」として、長女・かれんを産む。なお、編集の仕事をやめたくなかったので、いつも大きなブラウスを着て出勤して職場には妊娠を隠し、最後の2ヶ月は病気休暇をとって出産し、その後1週間で職場に復帰した。かれんは、千葉の知り合いの未亡人に預けた。
翌1965年、次女ノエルを身ごもり、やはり長期休暇を取って会社には内緒で産むつもりが、業務多忙のため適わず、退社してフリーのライターとなる。なお、「出産休暇」のために予定していた2ヶ月のヨーロッパ旅行にはそのまま出かけ、「船上出産は医療費がかからない」ため、マルセイユから帰国の船にのり、到着直前のクリスマスの朝にノエルを出産。ノエルはすぐに、かれんと同様に未亡人に預けた。
1967年、愛人がベトナム行きの船の船長になったため同乗し、戦争下のベトナムに赴く。書類を偽造してプレス・パスを入手し、「従軍記者」として戦地を取材。帰国後の1968年に、ベトナムでみごもっていた長男・ローランドを出産。ローランドは愛育病院に託す。
1968年、愛人は、最初の妻と離婚後、別の女性と結婚した。愛人との関係を清算するためもあり、ローランド出産後すぐ、かれんのみを連れてアメリカへ。かれんは東海岸の保育所に預け、単身アメリカを放浪し様々な職業につく。ロスアンゼルスで新しい恋人ができた為、子どもたちを呼び寄せ、「万が一の場合の子供たちへの遺書」的な意味もこめて、「破天荒なシングル・マザー」としての経験を書いた自伝的エッセイ『渚と澪と舵 ふうてんママの手紙』(題名は、三人の子の日本名)を1970年に刊行。新しい女の生き方を示して、多くのファンを得る。
アメリカに送られてきたファンレターを読み、日本で文筆生活をして生きていこうと決意し、同1970年帰国。アメリカ放浪中に、新聞の「男女交際欄」に自ら応募した体験などから、アメリカ人の寒々とした心象を描写した『淋しいアメリカ人』を翌1971年に刊行。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。
以降、女性の生き方についての本などを多数、執筆、翻訳する。1976年の『聡明な女は料理がうまい』はベストセラーに。その印税で、一家でニューヨーク郊外の緑あふれる高級避暑地であるイーストハンプトンの大きな借家で1年暮らした。その生活は著書、『マザー・グースと三匹の子豚たち』に描かれている。

また、1977年に創刊された女性雑誌「クロワッサン」が、1978年から「新しい女性の生き方を追う雑誌」に路線を変更すると、「カリスマ・シングル・マザー」として「生きかたの見本」として20代の読者たちから憧れの対象になる。だがこのことでのちに、1988年刊行の松原惇子クロワッサン症候群』で批判された。
骨董の収集を趣味とし、1982年、45歳の時、12歳年下の美術鑑定家・エッセイストの勝見洋一と結婚。五年目から、署名捺印した離婚届をお互いが持ち、自由な関係にしておいた。
1987年、50歳で人生の「林住期」を宣言しバンクーバーの別邸を買い、「林住庵」と名づけて年の3分の1を住むようになる。
1990年代から、サントリー学芸賞社会・風俗部門選考委員を務めたが、2000年度、勝見がこの部門で受賞したことで、批判を受けた(ベスト・エッセイ集『象が歩いた』参照)。翌年、選考委員を辞任、また2002年、勝見とも離婚し友達関係に戻った。
また、近年は気功を始めとした、スピリチュアリズムに傾倒している。1994年の著書『見えない海に漕ぎ出して』では、超能力心霊治療サイババの奇跡、インディアンの秘薬などについて書かれている。
2007年に70歳を迎えたことを期に、2008年1月から中目黒の自宅で私塾「森羅塾」を主宰する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「桐島洋子」の詳細全文を読む




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