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東海自動車 : ミニ英和和英辞書
東海自動車[とうかいじどうしゃ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
東海 : [とうかい]
 【名詞】 1. region south of Tokyo on Pacific Ocean side of Japan 2. eastern sea 
自動 : [じどう]
  1. (adj-na,n) automatic 2. self-motion 
自動車 : [じどうしゃ]
 【名詞】 1. automobile 
: [どう]
 【名詞】 1. motion 2. change 3. confusion 
: [くるま]
 【名詞】 1. car 2. vehicle 3. wheel 

東海自動車 : ウィキペディア日本語版
東海自動車[とうかいじどうしゃ]

東海自動車株式会社(とうかいじどうしゃ、''Tokai Jidosha Co., Ltd.'' )は、小田急グループバス専業会社。愛称は東海バス(とうかいばす)。本社は静岡県伊東市渚町。東海バスグループの持株会社であるとともに、不動産業レストハウス事業、関係会社の事務委託業を営む。
== 沿革 ==

=== 創業期 ===
1916年に下田自動車がチャンドラー4台を使用して、天城峠経由で下田と大仁を結んだ路線の運行を開始したのが、それまで乗合馬車が主力の交通手段だった〔バスジャパン・ハンドブックシリーズ「16 東海自動車」p16〕伊豆半島におけるバス事業のはじまりである〔バスジャパン・ハンドブックシリーズ「16 東海自動車」p17〕。翌1917年には下田から松崎・下賀茂へ〔、さらに1925年には下田から稲取への路線を開設した〔。
一方、1917年には伊東自動車が伊東から亀石峠を経由して大仁・修善寺を結ぶ路線と、伊東から宇佐美を結ぶ路線の運行をビュイック4台で開始〔、翌1918年には大仁から三島・沼津へ路線の延長を行っている〔。1918年には伊東自動車は東海自動車に社名を変更している〔が、この後、同一商号で1999年までバス事業を継続した(商号自体は1999年以降も継続)。これは同一商号での営業を行ったバス事業者としては日本における最長記録である〔。
この当時、全国的な傾向として小規模なバス事業者が次々と開業していたが、伊豆半島も例外ではなかった〔バスジャパン・ハンドブックシリーズ「16 東海自動車」p18〕。東海自動車では、これらの小規模事業者の買収を進め、自社の防衛を図るとともに伊豆半島北部に路線網を拡大していった〔。自社による路線展開も行い、1924年には沼津・三島から元箱根への路線を開設、1925年には省線熱海線が開業するのに合わせて伊東と熱海を結ぶ路線を開設した。
この間、1923年には関東大震災による津波、1929年には伊東町の大火により本社社屋や車両にも被害があり、1930年には北伊豆地震が発生するなど、経営状態が低迷している〔。その後、今日に至るまでにも、東海自動車は自然災害により業績に影響が出るケースが何度か発生している。
この頃、大倉財閥では伊豆の観光開発を手がけており、観光開発に伴う交通手段の確保を検討していた〔。折りしも路線展開を進めていた東海自動車との利害が一致し〔、1928年に東海自動車は大倉財閥の傘下に入ることになった。1931年には省線との連帯運輸を開始したが、これにより省線との通し乗車券が発行されることになり、知名度と対外的な信用は高まったという〔。
1931年、駿豆鉄道(当時)は沼津 - 三島 - 修善寺間を運行する東海自動車の路線に対して、自社の乗客を奪われたとして賠償請求を求めて訴訟した〔。1941年に東海自動車の勝訴で決着となったが、後に伊豆・箱根地区の観光開発をめぐり、西武と小田急の各企業グループが争うことになる前哨でもあった。
昭和に入ると、伊豆半島の道路網の整備は進み、1933年には伊豆半島を一周する道路網が構築された〔。ここで下田自動車と東海自動車は、将来を見据えてバス交通の一本化を検討することとなり〔、検討の結果、両社は対等合併することになった。1932年11月11日に両社は合併、新たに東海自動車として再出発することになった。この時期に現行の営業エリアを確保した例はほとんどなかった〔バスジャパン・ハンドブックシリーズ「16 東海自動車」p19〕うえに、車両数169台・従業員数408名というのは当時としては最大級のバス事業者であった〔。合併とともにバスの車体色を統一し、「イエロー・カー」と呼ばれるようになった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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