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朱友恭 : ミニ英和和英辞書
朱友恭[しゅ ゆうきょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しゅ, あけ]
 【名詞】 1. (1) scarlet 2. red 3. (2) bloody 
: [とも]
 【名詞】 1. friend 2. companion 3. pal 

朱友恭 : ウィキペディア日本語版
朱友恭[しゅ ゆうきょう]
朱友恭(しゅ ゆうきょう、生年不詳 - 905年)は、後梁皇族で、初代皇帝朱全忠仮子。本で、彦威。はじめは克譲と名乗った。寿州寿春(現・安徽省淮南市寿県)の人。
軍事的才能に長けていたが、人格的に問題があった。また、彼は朱全忠の長男の彬王朱友裕と仲が悪かった。
==生涯==
若いころから仮父に従軍して、戦功を挙げて諸軍都指揮使、建康左僕射となった。さらに汝州刺史を授かり検校司空に任じられ、都虞侯に封じられた。
しかし、892年に、石仏山で敵対した朱瑾が敗走すると、朱友恭は氏叔琮とともに故意に朱瑾を見逃したと朱全忠を批判した。激怒した朱全忠は朱友恭の兵権を剥奪しようとした。このとき使者が誤って朱友恭ではなく、朱友裕のもとに朱全忠の書信を渡してしまった。これを見た朱友裕は不安になったが、これは張皇后(朱友貞の生母)が手を差し伸べて、継子の彬王を懸命に助命したので解決されたが、以降、朱全忠は仮子の朱友恭を疎み始めた。
光化初年に淮南地方に反乱が起こり、鄂渚を陥落されると、朱全忠は朱友恭に数万の軍勢を与えて派遣させ、朱友恭は龍沙、九江を鎮圧して大いに名を挙げた。
さらに、黄州を攻略して付近の城を陥落させて、賊将瞿章を捕らえて数万の敵兵を捕虜とした。その帰還中の安陸を経て、突如に安州刺史武瑜を襲撃してこれを殺害して、その民を傘下に収めた。この戦功で、朱友恭は穎州刺史に累進し、検校司徒となった。
天祐初年に、唐の天子の昭宗長安から洛邑(洛陽)に遷都し、左竜武都統に任命され、右竜武都統の氏叔琮とともに宮中を護衛した。
904年朱全忠は唐の天子の昭宗の監視をその朱友恭と氏叔琮に任せ、その一方で、腹心の枢密使の蒋玄暉参謀李振を派遣し、朱友恭らと昭宗の暗殺の計画を練った。
朱全忠は自分を誹謗した朱友恭を破滅させようと機会を伺っていたのである。その結果、刺客史太が昭宗を暗殺した。間もなく朱全忠は昭宗の棺の前で「陛下を害したのは仮子の友恭の仕業です。私が責任を取って、友恭と氏叔琮を誅いたします」と慟哭し、朱友恭と氏叔琮に罪を着せた。
同時に長安で朱友恭の軍勢が略奪行為をしたために、ついに朱全忠は彼らを逮捕して、投獄した。やがて友恭は仮子を解かれて、元の李彦威に戻り、崖州海南島)の司戸として左遷すると発表され、長安で処刑された。
新五代史』が引く張廷範の言によると、朱友恭の最期の言葉は「俺を捨て駒にして、天下の誹りを回避しようとしたんだ。鬼神よ! いかんせん、このような行為をして、朱家の子孫が在続すると思うのか?」と叫んだという。同時に氏叔琮も白州広西省の博白)の司戸に左遷と発表され、友恭と共に処刑された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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