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川崎銀星座 : ミニ英和和英辞書
川崎銀星座[かわさきぎんせいざ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)
: [ぎん, しろがね]
 【名詞】 1. (1) silver 2. silver coin 3. silver paint
: [ほし]
 【名詞】 1. star 
星座 : [せいざ]
 【名詞】 1. constellation 
: [ざ]
  1. (n,n-suf) seat 2. one's place 3. position 

川崎銀星座 : ウィキペディア日本語版
川崎銀星座[かわさきぎんせいざ]

川崎銀星座(かわさきぎんせいざ、1936年 開業 - 1990年代 閉館)は、かつて存在した日本の映画館である。美須鐄金美館本部(のちのカワサキ・ミス、現在のチッタ エンタテイメント)による川崎進出第1号館であり、同地の空襲による壊滅からの復興第1号館でもあった。
== 略歴・概要 ==

1936年(昭和11年)、東京市荒川区(現在の東京都荒川区)を拠点に映画街を形成していた金美館本部が、川崎市への進出の第1号館として、同市小川町(現在の同市川崎区小川町)に同館を開業する〔〔。金美館本部は、同館を初め、合計6館を建設し、1937年(昭和12年)春には、小川町に「川崎映画街」を形成、これが現在の「チネチッタ」の第1歩となる〔。川崎映画劇場(のちの川崎スカイ劇場、現存せず)、実演劇場の川崎花月劇場(1943年開館、現存せず)等が存在した〔。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)4月15日川崎大空襲で全焼、映画街がすべて崩壊する〔〔。同年7月、同館を第1号として急造のバラックとして復興する〔。戦後、改めて復興を期して改築、同年11月に正式に竣工、同月17日 - 18日内覧会、19日 - 21日の3日間は市民に無料公開し、同月22日から松竹の作品をもって本興行を開始した〔〔「川崎映畫街復興 十七日から蓋をあける」、神奈川新聞、1945年11月15日付。〕。同館に続いて、川崎映画劇場、川崎花月劇場が復興〔、1947年(昭和22年)末までには、さらに川崎オデオン座川崎第一東宝劇場川崎大映劇場が完成、6館(映画館は5館)が形成する「川崎映画街」として翌1948年(昭和23年)の正月興行を開けた〔。
1949年(昭和24年)4月18日、金美館本部は従来の個人事業から会社組織化され、美須合名会社となる。同年、川崎映画街は9館に増強される。1950年(昭和25年)、同館を初めとした川崎映画街に「銀映会」が結成される〔。同年7月、関連会社として設立した美須商事株式会社(のちに美須合名と合併してカワサキ・ミス、現在のチッタエンタテイメント)の直営として、蒲田に6館を新設している〔『キネマ旬報 1954 年鑑』、キネマ旬報社、1954年, p.81〕。このころは『禁じられた遊び』等を興行する洋画ロードショー館であった〔『禁じられた遊び』チラシ、川崎銀星座、1953年。〕。当時の所在地は川崎市古川通78番地である〔『映画年鑑 1956』、時事映画通信社、1956年、p.20.〕。
1974年(昭和49年)4月1日、同館を初めとする川崎地区の映画館を経営する美須合名と、蒲田地区の映画館を経営する美須商事が合併して、株式会社カワサキ・ミス(社長美須君江)を設立、同館の経営は同社の興行部が行うこととなる〔『映画年鑑 1975』、時事映画通信社、1975年、p.13.〕。
1976年(昭和51年)3月、『キネマ旬報』誌3月下旬号グラビアページで「われらの映画館 神奈川篇」で紹介される〔『キネマ旬報』誌1976年3月下旬号、キネマ旬報社、1976年3月、p.51.〕。このころには、日本映画の名画座となっており、小説家の田中小実昌もよく通ったと後に回想している〔『文藝』、河出書房新社、1985年。〕。
1982年(昭和57年)10月25日、同館を経営するカワサキ・ミスから興行部門が分離独立、美須興行株式会社(会長美須君江、社長太郎田智、現在の株式会社チネチッタ)を設立、同館の経営は美須興行が行うこととなる〔『映画年鑑 1983』、時事映画通信社、1983年、p.130.〕。
1985年(昭和60年)、川崎映画街の再開発が着手され、川崎グランド劇場(後のチネグランデ)をはじめとして、いくつかの映画館が取り壊されるが、同館は引き続き営業する〔。1987年(昭和62年)、再開発の結果、シネマコンプレックス「チネチッタ」が誕生〔、チネグランデ、チネ1-5らが立ち並ぶなかで、同館はその入口のパチンコ店の2階に位置し、少なくとも1990年(平成2年)ころまでは、日本映画の名画座から松竹封切館にプログラムを換えて、営業を続けている〔『映画年鑑 1990』、時事映画通信社、1990年、p.13.〕。その後、時期は不明であるが1990年代のある時点で、閉館する〔少なくとも『映画年鑑 1997』別冊『映画館名簿』には記載が見られない。『映画年鑑1997版別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1997年、p.36.〕。
1991年(平成3年)、チネチッタ通り商店街振興組合が発足し、2001年(平成13年)に「銀映会」が解散する〔。2003年(平成15年)、カワサキ・ミスがチッタ エンタテイメント、子会社の美須興行がチネチッタとそれぞれ社名変更している。現在、同館の跡地にはカキモトアームズLA CITTADELLA店が建っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「川崎銀星座」の詳細全文を読む




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