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川島雄三 : ミニ英和和英辞書
川島雄三[かわしま ゆうぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 
: [み]
  1. (num) three 

川島雄三 : ウィキペディア日本語版
川島雄三[かわしま ゆうぞう]

川島 雄三(かわしま ゆうぞう、1918年2月4日 - 1963年6月11日)は、日本映画監督
== 来歴・人物 ==
青森県下北郡田名部町(現在のむつ市)生まれ。家は代々伝わる商家(酒屋)で、もともとは近江商人の出。父・徳蔵、母・ヨシの三男として生まれる。ヨシは下北半島の大畑八幡神社の娘で、川島が5歳のとき死亡。その後は義母に育てられる。運動はまったく駄目だったが、成績優秀で本を読むのが好きな子供だった〔『驚きももの木20世紀』テレビ朝日〕。
青森県立野辺地中学校(現:青森県立野辺地高等学校)卒業。明治大学専門部文芸科に入学、学生時代は映画研究部に在籍。大学卒業後、松竹大船撮影所監督部に入社。撮影所前の松尾食堂に入り浸り、居候となる。食堂の娘と縁談話が持ち上がったが、子供を作れない体であることを理由に断る。このときすでに筋萎縮性側索硬化症を発病していたらしい。初の助監督公募で、2000人中8人の採用に選ばれる。島津保次郎吉村公三郎小津安二郎野村弘将木下惠介らの助監督を経て、1944年、監督昇進試験主席合格ののち織田作之助原作の『還って来た男』で監督デビュー。1946年の『追ひつ追はれつ』では日本初のキスシーンを撮った〔。松竹時代はコメディ映画を多く撮っていた〔。
家を持たず、浅草新宿など、都内の行きつけの宿を家替わりに泊まり歩いていたが、銀座の小料理屋「菊川」で働く中村八重司に惚れこみ、当時高級住宅だった日活アパートで一緒に暮らし始める。幼い頃亡くなった川島の母に八重司はそっくりだった。八重司は妊娠したが、川島は出産を許さなかった。また、夜ごとスタッフと飲み明かす日々を送り、飲み代は当時の金で毎月50万円に達した。助監督の給料が1万円の時代に5万円の舶来の洋服を着ていた。健康にも気をつかい、マレー半島のコブラの脂など、20種類以上の薬にサラリーマンの給料分の金額を毎月つぎ込んでいた。〔
戦後はプログラムピクチャーを量産する。松竹で23本の映画を撮ったあと〔、1954年日活へ移籍。『洲崎パラダイス赤信号』『幕末太陽傳』などの傑作を残す。1957年東宝系の東京映画へ移籍。かたわら大映でメガホンを取った『女は二度生まれる』『雁の寺』『しとやかな獣』の3作品で若尾文子と組み、作品を残す。
趣味はカメラで映画関係者、男優、女優らとミノックスの愛好会「ミノムシ・クラブ」を主宰。監督昇進の頃から、筋萎縮性側索硬化症に冒され歩行等に障害を有していた。遺作『イチかバチか』公開の5日前に芝にある日活アパートの自室にて急死。直接の死因は肺性心享年45。墓所はむつ市新町の徳玄寺。監督作品51本、待機作3本は未完となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「川島雄三」の詳細全文を読む




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