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崔昌益 : ウィキペディア日本語版
崔昌益[ちぇ ちゃんいく]

崔 昌益(チェ・チャンイク、1896年 - 1960年)は、日本統治時代における朝鮮独立運動家・社会主義者。中国金元鳳と共に抗日運動を行った。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国にも参加したが、のちに金日成によって粛清された。妻の許貞淑許憲の娘)も北朝鮮の政治家。別名は崔昌錫、崔昌淳、崔東宇、李建宇。
== 生涯 ==
咸鏡北道穏城郡の出身で、日本の早稲田大学政治経済学部を卒業した〔『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』「崔昌益」の項では日本大学卒業としている。〕。京城(現:ソウル特別市)で結成された共産主義者の組織・ソウル青年会(いわゆる「ソウル派」。朝鮮共産党参照)に参加してその幹部として活動。1925年モスクワ国際共産党大会に、ソウル青年会代表として参加した。
1928年、第三次朝鮮共産党事件で逮捕される。服役後の1936年、妻の許貞淑とともに中国に亡命漢口において朝鮮民族前衛同盟を結成した。この年から、金元鳳朝鮮民族革命党に参加すると共に、1938年金元鳳が始めた在武漢朝鮮青年戦時服務団(朝鮮義勇隊)の指揮を任された。金元鳳が中国国民党政府との関係を深め対日宣伝戦に力を注ぐようになると訣別し、延安に移動。朝鮮義勇隊の一部を中国共産党の影響下に置き、これを中核として朝鮮義勇軍を結成した。1942年には副主席となった。延安での活動から延安派とされるが〔『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』「延安派」の項では崔昌益を延安派の代表的メンバーの一人に挙げている。〕、武亭金枓奉らが1920年代から中国共産党で活動していたのとは異なる経歴を持つ。
1945年12月、平壌に帰国。1946年3月朝鮮新民党副委員長に就任、8月には北朝鮮労働党中央委員会常務委員兼政治委員に就任した。その後、北朝鮮労働党常任委員、北朝鮮人民委員会人民検閲局長を経て、1948年、北朝鮮労働党中央委員及び最高人民会議代議員に選出される。1948年9月に北朝鮮政府が樹立されると、財政相を任された。1952年、北朝鮮内閣副首相に就任し、財政相を兼任した。
1956年朴昌玉尹公欽と共に金日成を批判し、党から除名された(8月宗派事件)。1957年に獄死したとも処刑されたもとされる〔『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』「崔昌益」の項では「処刑されたといわれる」と表現し、没年には疑問符を付して「1957?」と示している。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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