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岸部一徳 : ミニ英和和英辞書
岸部一徳[きしべ いっとく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きし]
 【名詞】 1. bank 2. coast 3. shore 
: [いち]
  1. (num) one 
一徳 : [いっとく]
 (n) virtue

岸部一徳 : ウィキペディア日本語版
岸部一徳[きしべ いっとく]

岸部 一徳(きしべ いっとく、本名:岸部 修三〔(きしべ しゅうぞう)、1947年1月9日〔 - )は、京都府京都市出身〔の俳優ミュージシャン。旧芸名:岸部 修三(きしべ おさみ)、岸部 おさみ。愛称:サリー一徳兄さんザ・タイガースPYG井上堯之バンドベーシスト。身長181cm〔、。京都市立伏見工業高等学校建築科〔卒業。
== 来歴・人物 ==

=== ザ・ タイガース時代まで ===
京都市で生まれ育つ〔。父親は元憲兵であった〔磯前順一『ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた』集英社〈集英社新書〉、2013年、pp.14〕。京都市立北野中学校瞳みのると同級生となり、ともに牛乳配達のアルバイトをするなど親交を結ぶ〔。京都市立伏見工業高等学校建築科に進学、住居も左京区となる〔磯前、2013年、pp.15 - 16〕。別の高校に進んだ瞳とは交友がいったん途絶えるが高校2年生の頃に四条河原町で再会、森本太郎加橋かつみも加えた4人で遊ぶようになった〔。1964年12月12日には地元の京都新聞夕刊の読者写真コンテストに「踊る若者たち」というタイトルで入選した作品に偶然写ったこともあった〔〔磯前、2013年、p.17(該当の写真も掲載されている)〕。翌1965年に、4人によってバンド「サリーとプレイボーイズ」が結成され、これが「ザ・タイガース」の母体となった。このバンド名は当時の岸部が、『ロング・トール・サリー』(のっぽのサリー)に引っ掛けて「サリー」と仲間からあだ名されていたことに由来する〔磯前、2013年、p.21。バンド名は加橋の命名という。〕。「サリー」のあだ名は後のザ・タイガース時代にも愛称となった。岸部はバンドでベーシストを務める〔。1966年にはボーカルに沢田研二を加えてバンド名を「ファニーズ」と改称、京都や大阪で高い人気を得る。その年の11月に上京、グループは「ザ・タイガース」となった。同時にファニーズ時代の瞳に代わってグループのリーダーとなる〔磯前、2013年、p.61。これは所属した渡辺プロダクションの指示によるものだったという。〕。また、グループを上京させた内田裕也の命でメンバーの芸名を決めた際、本名の読みを「おさみ」に変えている〔磯前、2013年、p.72〕。
1967年2月5日、シングル『僕のマリー/こっちを向いて』でデビュー。B面の「こっちを向いて」は岸部によるボーカル曲である。ジャッキー吉川とブルーコメッツザ・スパイダースとは異なる若手GSとして脚光を浴び、ボーカルの沢田や瞳の大人気も相まって、シングル4枚目の『君だけに愛を』で一気に頂点へ上り詰め、以降解散まで「GSの王者」として君臨する。
ザ・タイガース時代にはベーシストとしてだけでなく、GS界では唯一とも言える本格的なバリトンヴォイスを披露した。タイガース時代のみならず、後のPYG井上堯之バンド時代を通して、岸部のコーラスは沢田研二のボーカルを引き立てるために欠かせない要素であった。
当時のザ・タイガースのファン層は10代の少女が中心だったこともあり、アイドルとしての人気は華やかな沢田と瞳に集中する反面、大人びた雰囲気であった岸部には男性ファンが多く付いていた。また、リーダーとして沢田をはじめメンバーから厚く慕われていた。例えば、ベトナム戦争が激化していた当時に行われた雑誌インタビューに於いて「一番怖いものは何?」との問いに他のメンバーが「戦争」「武器」などと答えている中、岸部ひとりが「人の心」と答えるなど、当時から後の「俳優・岸部一徳」としてのキャラクターに通ずる落ち着いた大人の風格を漂わせていた。
岸部は、メンバーの中でもかなりの音楽通として知られ、当時アメリカに滞在していた弟の岸部四郎からの最新音楽情報もあり、タイガースのステージでのレパートリーは、主に岸部が選曲し、ギターの森本太郎がアレンジをするといった形で決められていった。
1969年にはメンバーの加橋かつみの脱退を受け、岸部四郎を帰国させ、新メンバーとして加入させる。そして1970年には、岸部四郎(通称シロー)と『サリー&シロー』名義でアルバム『サリー&シロー トラ70619』を発売した。沢田単独でのテレビ出演などが増えてきたこの頃には、「10円コンサート」などのロックフェスティバルに、沢田を除くタイガースのメンバーにムッシュかまやつミッキー吉野らを加えた布陣で『岸部おさみグループ』と名乗り出演することもあった。1971年1月24日、日本のミュージシャンとしては初の単独日本武道館公演となった「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」をもってグループを解散した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岸部一徳」の詳細全文を読む




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