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山背大兄王 : ミニ英和和英辞書
山背大兄王[やましろのおおえのおう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
山背 : [やませ]
 【名詞】 1. cold wind descending from the mountains 2. (in the Tohoku region in summer) a cold Pacific wind
: [せ, せい]
 【名詞】 1. height 2. stature 
大兄 : [おおえ, たいけい]
 【名詞】 1. honorific title for someone a little older 2. older brother
: [あに]
 【名詞】 1. (hum) older brother 
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

山背大兄王 : ウィキペディア日本語版
山背大兄王[やましろのおおえのおう]
山背大兄王(やましろのおおえのおう、生年不詳 - 皇極天皇2年11月11日643年12月30日))は、『日本書紀』によれば7世紀前半の皇族。『上宮聖徳法王帝説』では厩戸皇子(聖徳太子)の子であるとされるが、『日本書紀』にはそのような記述はない。
== 生涯 ==
『日本書紀』皇極紀〔 日本書紀 皇極紀 〕によると、推古天皇が病死後にその後継問題が発生し、蘇我氏の庶流境部摩理勢らは山背大兄王を擁立する。その結果、蘇我蝦夷の擁立する田村皇子らと皇位を争うが、蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は田村皇子が継承することとなり、629年に即位(舒明天皇)する。
蘇我蝦夷が山背大兄王を避けた理由については、山背大兄王がまだ若く未熟であった、あるいは山背大兄王の人望を嫌ったという説と、推古天皇に続いて蘇我氏系の皇族である山背大兄王を擁立することで反蘇我氏勢力との対立が深まる事を避けたかったためという説がある。
だが、蘇我氏の実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿はより蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。このため、王と蘇我氏の関係は決定的に悪化する。
皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多土師猪手大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、莵田諸石伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。
結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる〔ただし、上宮王家がこの時に全員死亡したとする説には疑問を持つ見方もある。例えば、『聖徳太子伝補闕記』において山背大兄王とともに自殺したとされる片岳女王(片岡女王)について、東野治之は『法隆寺資財帳』に見える金泥銅灌頂幡を寄進した「片岡御祖命」と同一人物とし、女王が一族の滅亡後も生き延びて法隆寺の再建に立ち会った可能性があるとしている(東野 校注『上宮聖徳法王帝説』(岩波書店岩波文庫、2013年)P22)。〕。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。なお墓は不詳であるが、法輪寺近郊にある「岡の原」という小山が山背大兄王墓であるという伝承がある。
当時の天皇は長男による世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であったためである。また、推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があったとも言われている。
更に山背大兄王の暗殺には、多数の皇族が加わっていたと言われており、山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑が一致したからこそ出来た事件であろう。
当時の後継者選びの基準が上宮王家一族を悲劇へと追い込んだのである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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