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小川良成 : ミニ英和和英辞書
小川良成[おがわ よしなり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

小川 : [おがわ]
 【名詞】 1. streamlet 2. brook 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [りょう]
 【名詞】 1. good 

小川良成 : ウィキペディア日本語版
小川良成[おがわ よしなり]

小川 良成(おがわ よしなり、1966年11月2日 - )は、日本男性プロレスラープロレスリング・ノア相談役。茨城県北相馬郡取手町(現:取手市)出身。
リングコスチュームから愛称はゼブラ
== 略歴 ==
1983年全日本プロレスに入門。1985年9月3日、岩手県宮古市宮古駅前サンプラザ駐車場特設リングの笹崎伸司戦でデビュー。天龍源一郎の付き人を務め、その流れで1987年には天龍同盟入り。なかなか体重が増えなかったことと肘の故傷に泣かされ、伸び悩んだ時期もあったが、その分テクニックを身につけジュニアヘビー級のレスラーとして活躍した。その後、天龍源一郎らの選手が大量離脱した後、団体内の流れが超世代軍と鶴田(正規)軍の抗争中心になった際には、ジャンボ鶴田率いる鶴田軍に加わった。
1998年8月、後楽園ホールでの6人タッグ戦で秋山準に初勝利。ジュニアヘビー級の選手がヘビー級に勝つことは、全日本の試合においてそれまで考えられなかった。折りしも三沢光晴は当時のパートナー秋山準とのタッグを解消することが決まっており、意中のパートナーがいることを匂わせていたがそれこそが小川だった。その時期、三沢はジャイアント馬場からマッチメイク権を委譲されており、小川の台頭は「三沢革命」の象徴になる。その年の世界最強タッグ決定リーグ戦にて三沢のパートナーとして本格的に抜擢され、三沢とユニット「アンタッチャブル(後のWAVE)」を結成。
以降はそのテクニックが際立つようになり、新日本プロレス獣神サンダー・ライガーと並んで「テクニシャン」と評され、ジュニアの体重ながら老獪なテクニックを駆使してヘビー級の選手とも互角に渡り合う。
1999年8月には三沢とのタッグで大森隆男高山善廣組に勝利し、アジアタッグ王座、さらに初のヘビー級ベルトである世界タッグ王座を獲得した。この時小川は世界ジュニアヘビー級王座、三沢は三冠ヘビー級王座を保持しており、二人で全日本に存在するタイトルを総ナメにした。
2000年プロレスリング・ノアの旗揚げへ参加。2002年4月に秋山準を破りジュニアウェイトの選手として初めてGHCヘビー級王者(第3代)になった。この時、秋山は「5分以内に片付ける」と小川を挑発していたが、逆に小川は5分以内に秋山の技を切り返して丸め込み3カウントを奪った。秋山戦を含めて丸め込みでの勝利が多かったことからヘビー級王者としての人気は今ひとつであり、ベルトを奪われた外敵・高山善廣との試合で高山に圧倒的な声援が送られる結果であった。なお、三沢光晴のタッグパートナーとしてGHCタッグ王座も2度獲得した。
2003年11月1日の日本武道館大会にて、第6代GHCヘビー級王者の小橋建太(5度目の防衛戦)に挑戦。鉄柱攻撃による大流血が最後まで響き敗北する。
2004年4月3日のディファ有明大会にて、初代GHCジュニアヘビー級タッグ王者の丸藤正道&KENTA(5度目の防衛戦)に挑戦した。パートナーの鈴木鼓太郎と王者チームを責めたが、丸藤の雪崩式不知火の前に敗れた。
2005年7月18日の東京ドーム大会にて、かつて付き人を務めていた天龍源一郎と「Destiny第一戦シングルマッチ」で対戦が決定。前哨戦では小川が天龍に対して椅子を投げるなどの挑発を何度も行い、「天龍源一郎の引退試合って言うのはどうかなと思って。もうね、十分でしょ?」と言葉を吐いた。それに対し天龍は「あんな態度の悪い奴を付き人にした覚えはないよ。腹立たしい限りだよ」と記者越しに返していた。試合は小川が先に天龍の得意技であるWARスペシャルを繰り出したり、顔面蹴りをお見舞いしたりと小川が突っかかったが、体格で勝る天龍が53歳からのラリアットにて勝利。試合後はグロッギー状態であった小川に天龍が肩を貸し、小川は天龍の肩へもたれかかって花道を後にした。天龍は「可愛い後輩」とも言わんばかりの表情をしていたほか、バックステージのインタビューでも天龍は「俺に対してあいつが足りないのはキャリアだけだ。身体が小さいのにヘビーのベルトを巻いた人間だし、そういうリスペクトも含めて今日は試合をしたつもり」と最大の賛辞を贈った。
2005年1月にタッグ王座から陥落して以降、タイトル戦線には絡んでおらず、2007年4月にGHCジュニアヘビー級王座(その設立以降全く関わっていなかった)への挑戦を表明したが、その後も挑戦は実現していない。
ノアの経営面では、2001年末に同社の取締役に就任し経営の一翼を担ったが、三沢光晴の死去に伴い2009年7月に開かれた同社の臨時株主総会で同社相談役に退いている。
2010年10月、第4回日テレ杯争奪ジュニアヘビー級タッグリーグ戦に鈴木鼓太郎とタッグを組んで参戦。2004年以来のジュニア級公式戦であった。
2011年11月14日、後楽園ホール大会でバイソン・スミスの大技バイソン・テニエルを受け頭を強打。試合後も立ち上がることができず担架で運ばれ、病院へと搬送された。翌15日に頚椎捻挫ならびに胸鎖関節損傷と診断され、17日の旭川大会から欠場すると発表された。2012年12月4日に復帰。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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