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姜沆 ( リダイレクト:姜コウ ) : ウィキペディア日本語版
姜コウ[きょうこう]

姜沆(きょうこう、(カン・ハン)、Gang Hang、1567年5月17日 - 1618年5月6日)は、朝鮮李氏王朝時代中期の官人。字は太初(テチョ、)。号は睡隠(スウン、)。
== 生涯 ==
1593年、朝鮮王朝における文科に合格したが、1597年(慶長8年)の慶長の役(丁酉再乱)では刑曹佐郎という要職に就いており、全羅道で明の将軍・楊元への食糧輸送任務に従事していた。しかし日本軍の進撃によって全羅道戦線が崩壊し、一族で避難中に鳴梁海戦後に黄海沿岸へ進出していた藤堂高虎水軍により捕虜とされ、海路日本へ移送された。
日本では伊予国大洲に拘留され、のち伏見に移され、この頃に藤原惺窩と交流し彼の朱子学の体系化に大きな感化を与えたとされる〔日本では朱子学の知識そのものは知られていたものの仏教の文脈のなかで紹介される知識としての範囲を出るものではなかった。藤原惺窩はもと禅宗の僧侶であったが30才の時に京都の大徳寺で朝鮮通信使と交流をもつ機会があり、そのさいに朱子哲学に目覚めたという。今中寛司によれば、その後38歳の時に出会った姜沆との交流が一種の哲学的「改宗」をもたらしたとする。「藤原惺窩の朱子学者への転向は廃仏帰儒の結果か」朴 都暎(思想史研究2008.9 日本思想史・思想論研究会)〕〔一方で、「従来の姜沆に関する研究の多くは主に姜沆の藤原惺窩に対する思想的影響の側面が強調されてきており、充分とは言えない研究状況とは裏腹に「日本に朱子学を伝えた」という言説は一つの「姜沆伝説」を形成しているといえる」状況にある。日本思想史学界2000年度「李朝後期知識人の他者像-姜沆の『看羊録』・朴趾源の『熱河日記』から反映された他者」広島大学大学院 金仙照〕。
約3年にわたる俘虜生活の見聞(日本制度や情勢)は『看羊録』にまとめられた。
1600年(慶長5年)4月に伏見を立ち、対馬を経由して朝鮮に帰国したが、再び仕官はしなかった。しかし、姜沆の文才を慕って学者が集まり、多くの門人を輩出した。
『看羊録』は彼が日本で見聞したこと、日本の内情や国土の特徴、諸大名の情勢などを細かく記したもので、朝鮮王朝に対する提言集的な側面が強い。一方、見聞の中での様々な情動を見事な漢詩で記しているのもこの『看羊録』である。現在平凡社東洋文庫で、朴鐘鳴訳注『看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記』(1984年、のちワイド版)で読める。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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