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大谷吉継 : ミニ英和和英辞書
大谷吉継[おおたに よしつぐ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


大谷吉継 : ウィキペディア日本語版
大谷吉継[おおたに よしつぐ]

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが〔関ヶ原の戦いで西軍へ加担することを決めた際に、吉継では「(三好)義継」に音が通じて不吉であるという理由で吉隆に改名したという。(安積澹泊『烈祖成績』)〕〔関ヶ原町にある吉継の墓塔は「大谷吉隆墓」として国の史跡に指定されている(国の史跡「関ヶ原古戦場」の附指定)。陣跡を示す碑に「大谷吉隆陣所古址」、墓塔の案内板に「大谷吉隆(吉継)」とそれぞれ記されている。〕、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病〔業病とは前世の罪の報いとして発する病気という意味で、非常に治りにくい病気・あるいは不治の病の総称として使われた。吉継がハンセン病であったと断定されているわけではないが、当時はハンセン病も業病の一種だと考えられていた。〕を患い、晩年は頭を白い頭巾で隠していたとも言う。
== 生涯 ==

=== 出自 ===
永禄2年(1559年)に近江国滋賀県)で生まれたとするのが通説であるが、永禄8年(1565年)を生年とする説もある〔染谷光廣『教養講座シリーズ第50集 織田信長・豊臣秀吉』(ぎょうせい、1986年)166頁〕〔宮本義己も2000年9月3日、歴史シンポジウム「大谷吉継の謎に迫る」(敦賀・プラザ万象)において永禄8年説を指摘し、染谷光廣の説を補強する。〕〔兼見卿記天正二十年一月三日 「ひかし殿子息刑部少輔廿八才」(数え年。満年齢27才の年である)このとき吉継の母である東殿は吉田神社の神主である吉田兼見に祈祷を頼んでおり(朝鮮出兵の戦勝祈願か)、この年齢も東殿の申告である可能性が高い〕。父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もあるが〔太田亮の『姓氏家系大辞典』に「大谷刑部少輔吉隆は豊後の人にして」「子孫盛治の子吉隆、刑部少輔に任ぜらる」とある。『名将言行録』においても「吉隆は大友家の臣なり、大友家亡し時、浪遊し、姫路に来り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ」とある。『国史大辞典』では「父は豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治であるといわれている」とある〕、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず〔荻原勝「小瀬甫庵『太閤記』を中心とする大谷吉継の軌跡』(『敦賀論叢』2号、1987年)〕〔毛利氏に仕えた石見益田氏の家臣に平貞経を祖とする広瀬古土居城主・匹見大谷氏があり、この匹見大谷氏の初代に「盛」の字を持つ大谷盛胤がいること、16世紀半ばの当主に姓名官途とも同じ大谷吉隆がいることから、これとの混同が生じたものと思われる。この大谷氏は毛利氏の敵対勢力に内通した疑いで主家益田氏から族滅されているが、内通した勢力が大友氏であった場合、「大友氏の家臣だった大谷氏」との俗説には「毛利氏陪臣から大友氏家臣になった」ということで説明がつくが、吉継豊後出身説の証拠とはならない〕、六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である〔『淡海温故録』『輿地志略』で吉継は近江大谷村の出身としている〕。
華頂要略の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある〔外岡慎一郎「青蓮院坊官大谷家と大谷吉継-その系譜をめぐって-」(『敦賀論叢』第17号、2002年)青蓮院坊官大谷家の系譜に大谷泰珍の子として吉継の名がみえる〕。
兼見卿記』によると母は豊臣秀吉の正室の高台院の取次役であった東殿である〔染谷光廣『教養講座シリーズ第50集 織田信長・豊臣秀吉』(ぎょうせい、1986年)164頁〕〔宮本義己「関ヶ原合戦―西軍の孤塁を守り義に殉じた熱き闘将―」(『歴史読本』42巻7号、1997年)〕とされるが、作者不詳の『交合雑記』〔『校合雑記』『挍合雑記』とも。国立国会図書館デジタルコレクション 〕では「(東殿の)名は朝日といい、秀吉の母・大政所のいとこである。従って吉継は秀吉の遠縁であり、諸大名もひれ伏す権勢を誇った」としている〔跡部蛮『真田幸村「英雄伝説のウソと真実」』双葉新書、2015〕。母が高台院の侍女であったことを根拠に秀吉の隠し子とする説もあり〔テレビ東京の歴史番組『決着!歴史ミステリー』の第12回(2009年8月13日放映)「 石田三成&大谷吉継 熱き男の友情物語!」の「吉継はなぜ負けると思っていて三成に味方したのか?」で取り上げられた説()。この番組では、秀吉が東殿に当てた書状で「会合にあなたを呼ばなかったので私を恨んでいると聞きました。長い間親しくしてきた間柄なので、非常にあなたのことが大事です。どうか機嫌を直してほしい」と述べていたこと、吉継が重病に冒された時、秀吉は私室にまで僧を呼んで、回復を願っての祈祷を捧げており、一族の者ではない、侍女の息子にこれほどまですることは考えられないことだと主張された()。〕、吉継の名が秀吉を継ぐすなわち吉継から出た俗説ともされ、出自はあまり良くわからず諸説ある。
兄弟姉妹が存在し、栗山林斉と祐玄(祐玄坊とも)の2人の甥が記録に見える。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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