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大和久守正 : ミニ英和和英辞書
大和久守正[おおわく もりまさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大和 : [やまと]
 【名詞】 1. ancient Japan 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [もり]
 【名詞】 1. nursemaid 2. baby-sitting 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 

大和久守正 : ウィキペディア日本語版
大和久守正[おおわく もりまさ]

大和久 守正(おおわく もりまさ、1929年2月25日 - )は、日本の脚本家である〔放送作家, p.12.〕〔演劇年鑑, p.251.〕〔著作権, p.80.〕〔''大和久守正''WorldCat, 2014年12月11日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2014年12月11日閲覧。〕〔''Morimasa Ohwaku'', インターネット・ムービー・データベース 、2014年12月11日閲覧。〕〔''大和久守正''東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年12月11日閲覧。〕〔''大和久守正''文化庁、2014年12月11日閲覧。〕〔''大和久守正''KINENOTE, 2014年12月11日閲覧。〕〔''大和久守正''allcinema, 2014年12月11日閲覧。〕〔''大和久守正''日本映画データベース、2014年12月11日閲覧。〕〔''大和久守正''日本映画製作者連盟、2014年12月11日閲覧。〕〔''大和久守正''東宝、2014年12月11日閲覧。〕〔''大和久守正''テレビドラマデータベース、2014年12月11日閲覧。〕〔''大和久守正''日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム、2014年12月11日閲覧。〕〔''大和久守正''Smartザテレビジョン、2014年12月11日閲覧。〕。1962年(昭和37年) - 1968年(昭和43年)の時期に連続テレビ映画特別機動捜査隊』の各話を数多く執筆し、劇場用映画においては、高倉健が主演した『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970年)あるいは『新網走番外地 吹雪の大脱走』(1971年)の脚本家として知られる〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔。
Smartザテレビジョンallcinema等での読み「やまと くままさ」〔〔、テレビドラマデータベースで併記される「大和守久正」〔は、いずれも誤りである〔〔〔。
== 人物・来歴 ==
1929年(昭和4年)2月25日、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)に生まれる〔〔。「大和久」姓は江東区大島の大和久煉炭工業(現在のシャイニングサービス)創業者・大和久十郎〔沿革 、シャイニングサービス、2014年12月11日閲覧。〕、元墨田区議会議員・大和久常雄〔すみだ区報 2009年12月1日号 墨田区、2014年12月11日閲覧。〕ら、同地区にみられる姓である。
明治大学に進学、第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)3月、同大文芸科を卒業する〔〔。松浦健郎(1920年 - 1987年)に師事、宝塚映画製作所が製作した嵐寛寿郎の主演作『疾風!鞍馬天狗』(監督並木鏡太郎)の脚本を松浦と共同執筆し、同作が1956年(昭和31年)6月8日に公開されて脚本家としてデビューした〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔。今村文人(1935年 - 2000年)〔、2014年12月11日閲覧。〕の回想によれば、今村が松浦に入門したころには、兄弟子として大和久のほか石郷岡豪〔、2014年12月11日閲覧。〕、佐藤道雄〔、2014年12月11日閲覧。〕、松原佳成〔、2014年12月11日閲覧。〕、山崎巌(1929年 - 1997年)〔、2014年12月11日閲覧。〕がおり、今村のすぐ後には安藤豊弘(1935年 - )〔、2014年12月11日閲覧。〕、雪室俊一(1941年 - )〔、2014年12月11日閲覧。〕らが入門してきており「まるで合宿所」であったという〔今村, p.84-85.〕。
1957年(昭和32年)4月16日公開の東映東京撮影所製作、『大学の石松 女群突破』(監督小石栄一、主演高倉健)、1958年(昭和33年)5月20日公開の東映京都撮影所製作、『伊那の勘太郎』(監督小沢茂弘、主演東千代之介)までは、松浦との共同執筆であったが、同年10月2日に放映されたテレビ映画盲目の弟』(主演鶴田浩二)、同年11月5日に公開された劇場用映画『捨てうり勘兵衛』(監督マキノ雅弘)で一本立ちした〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔。当時満29歳であった〔〔。以降、東映京都撮影所で脚本家として活動する〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔。1962年(昭和37年)7月11日に放映された『特別機動捜査隊』第38回『欲望の海』(監督不明)で初めて『特別機動捜査隊』の脚本を執筆、以降、1968年(昭和43年)6月12日放映の第346回『若者の橋』(監督不明)までの総計36作を執筆した〔〔〔。1966年(昭和41年)に発行された『放送作家年鑑1966』(日本放送作家協会、編集人大垣肇、発行人阿木翁助)や同じく『演劇年鑑1966』には、江東区大島の住所が書かれており、同地で居を構えた〔〔。当時は日本放送作家協会の会員であった〔〔。
1970年(昭和45年)4月10日に公開された『新兄弟仁義』(監督佐伯清、主演北島三郎)の脚本を手がけて劇場用映画に復帰、『遊侠列伝』(監督小沢茂弘、主演高倉健)、『博徒仁義 盃』(監督佐伯清、主演菅原文太)、『昭和残侠伝 死んで貰います』(監督マキノ雅弘、主演高倉健)、翌1971年(昭和46年)に入って『現代やくざ 盃返します』(監督佐伯清、主演菅原文太)、『新網走番外地 吹雪の大脱走』(監督降旗康男、主演高倉健)と、大和久の代表作となる作品を連打する〔〔〔〔〔〔〔〔。同年12月29日に公開された『新網走番外地 吹雪の大脱走』が最後の劇場用映画になり、1972年(昭和47年)以降はテレビ映画に戻った〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔。1974年(昭和49年)7月27日に放映された『大江戸捜査網』第149回『消えた死美人』(監督江崎実生)を五条貴士(1929年 - )とともに執筆し、脚本としてクレジットされた〔。以降の作品歴は不明である〔〔〔。当時、満45歳であった〔〔。
満72歳を迎えた2001年(平成23年)10月に発行された『著作権台帳第26版』(日本著作権協議会)には、墨田区本所の住所が記されていたが〔、以降の消息は不明である。日本放送作家協会、日本シナリオ作家協会日本脚本家連盟、いずれの会員一覧にも、2014年(平成26年)現在、大和久についての記述はない〔会員名簿 あ行 日本放送作家協会、2014年12月11日閲覧。〕〔会員プロフィール検索 日本シナリオ作家協会、2014年12月11日閲覧。〕〔信託者検索・名簿 お 日本脚本家連盟、2014年12月11日閲覧。〕。存命であれば同年には満85歳になる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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