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土方成美 : ミニ英和和英辞書
土方成美[ひじかた せいび]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つち]
 【名詞】 1. earth 2. soil 
土方 : [どかた]
 【名詞】 1. construction laborer 2. construction labourer 3. navvy
: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 

土方成美 : ウィキペディア日本語版
土方成美[ひじかた せいび]

土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年7月10日 - 昭和50年(1975年2月15日)は、日本の経済学者。専攻は理論経済学、財政学
結婚前の旧姓は、町田 成美(まちだ せいび)。
== 人物 ==
兵庫県姫路市に生まれる。父は姫路市会議長を経て1903年に衆議院議員となった町田猛郎(たけし)。祖先は代々酒井家に仕える武士であったという。兵庫県立姫路中学校を卒業後、父の意向で旧制高等学校の中では姫路に一番近い岡山第六高等学校に進学する。東京帝国大学法科大学経済学科を首席で卒業
在学中に高等文官試験に合格していたが、大学に残る。1917年1月、当時の法科大学長であった土方寧(やすし)(1859-1939)の養子となり、一人娘の貞子と結婚。これについては政略結婚と誤解した人も多かったようで、社会的には相当なマイナスイメージを持たれたと感じていたようである。本人は実家が借金を抱え、兄たちも放蕩を繰り返していたなどの事情からか「当時、生家を抜け出したかった」〔土方成美「私の歩んできた道」土方成美博士喜寿記念論文集刊行会編『土方成美博士喜寿記念論文集』483頁〕などと書いている。2月に助教授となり、8月にはアメリカフランススイスに留学を命ぜられる(9月18日出発、実際の留学先はアメリカ、イギリス、フランス)。1921年2月に帰国。21年6月教授。
統制経済」の概念を日本で初めて提唱したという〔同上書、489-490頁〕。この語は、自由主義経済の欠陥を政府の手で統制するという意味のものであり、「計画経済」とは異なるものであるとする。また、日本経済の実証研究も行なっており、これは当時誰も手をつけていない分野だったという〔同上書、488頁〕。
1933年4月-1936年3月、1937年4月-1938年3月まで経済学部長。1937年の学部長在任時には学部内左派の矢内原忠雄の言動を批判。辞職に追い込むきっかけを作る。この頃の経済学部では土方の国家主義派(革新派)と河合栄治郎らの自由主義派、及び大内兵衛の左派の派閥抗争が激化しており、河合については著書発禁による処分も待たれているところであった。そこで、1938年末に東京帝国大学総長に就任した平賀譲による、いわゆる平賀粛学により、「大学の綱紀紊乱」と「東大再建の障害」との理由で1939年2月13日、休職発令される(休職期間満了後、免官)。これについて本人は、河合のみを辞職させることは言論の自由を標榜する大学としてはできないため、当時の経済学部長舞出長五郎と法学部長田中耕太郎が事情を知らない新総長の平賀に自分を追放するための情報を一方的に流して追放させた、としている〔同上書、490-491頁〕。
東大追放後も講師をしていた中央大学では教鞭を執り続け、戦後は中央大学のほか、近畿大学國學院大學獨協大学などで教鞭をとった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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