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古田敦也 : ミニ英和和英辞書
古田敦也[ふるた あつや]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふる]
 【名詞】 1. used 2. secondhand
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [なり]
 (n) a sum of money

古田敦也 : ウィキペディア日本語版
古田敦也[ふるた あつや]

古田 敦也(ふるた あつや、1965年8月6日〔 - )は、兵庫県川西市出身の元プロ野球選手捕手)、監督東京ヤクルトスワローズ選手兼任監督(第19代))。現在は野球解説者、タレント、スポーツキャスター。日本プロ野球名球会副理事長。芸能プロダクションは株式会社エーポイント所属。マネジメントは株式会社ビッグベンと業務提携。妻はフリーアナウンサー中井美穂
ヤクルトスワローズ一筋で現役を過ごし、名捕手として一時代を築いた。また、2005年シーズン終了後から引退年の2007年まで選手兼任監督を務め、監督自身が代打出場する際の「代打 俺」が話題となる。「ミスタースワローズ」とも称され、東京ヤクルトスワローズを象徴する存在となった。
== 来歴 ==

=== 少年期・アマチュア時代 ===
川西市立加茂小学校〔同じ小学校の卒業生に屋鋪要がいる。古田の方が6歳年下になる。〕3年の時、地元・川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団。「(当時)太っていたから」という理由で捕手を任される。少年時代に好きだった選手は梨田昌孝である。地元では宝塚市立南ひばりガ丘中学校時代から注目され、高校進学時には私立校から誘いがあったものの、自宅に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学、高校3年間はほぼ無名の存在だった。
その後関西大学商学部、立命館大学経営学部経営学科の一般入試を受験し、どちらも合格した。当時、関西学生野球リーグにおいて関西大学は立命館大学より強豪だったため、関西大学への進学を決めて、入学を断るつもりで立命館大学へ挨拶に出向いたところ、古田を勧誘していた立命館大学硬式野球部監督の中尾卓一に大喜びされてしまう。またその夜、先輩に高級料亭における夕食に誘われ、京都の祇園の夜の街に魅せられたことで心変わりし、1984年春に立命館大学に入学。硬式野球部に入部した〔東京ヤクルトスワローズ 選手兼監督 古田敦也 前編1 ドリームゲート〕。同期の同学科には寺地永が居る。
高校時代は裸眼の視力は0.5程あったが、受験勉強により、0.1にまで下がった。大学キャンパス内で先輩に会った際に大きい声であいさつしなければならないため、大学に入ってから眼鏡をかけるようになった。古田は「見えませんでした、気がつきませんでしたじゃすまされないんで、もう眼鏡をかけるしかないと…」と語っている〔無名のメガネ捕手、古田が殿堂に入ったワケ 〕。
関西学生リーグで通算77試合に出場し234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点。ベストナインに4度選ばれた。3年時にはチームを関西学生リーグ戦春季・秋季連続優勝に導き、4年時の1987年には大学野球日本代表のメンバーに選出されるなど、その実力はプロ各球団からも注目された。11月のドラフト会議当日には会見用のひな壇が設けられたほどだったが、指名を確約された球団を含めどの球団からも指名されなかった〔http://www.5-life.net/magazine/article-345.html 木村政雄編集長との対談〕。当時日本ハムファイターズ球団常務だった大沢啓二によると、「古田は鳥目だ」という真偽不明の情報が流れたことによって〔大沢啓二『球道無頼』(集英社、1996年)P215。〕、日本ハムは指名を取りやめたとのちに新聞連載に記載している。後年に古田は、この際の屈辱が自身の反骨心に火をつけ、意地でもプロで活躍してやるという強い気持ちに繋がったと述べている〔【古田氏、殿堂入り一問一答】ノムさんの指導「今思い出しても厳しかった」 〕。
1988年3月、立命館大学経営学部卒業、経営学士号取得ののち、同年4月にトヨタ自動車に入社。入部した同社硬式野球部でも1年目から正捕手を任され、主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍。同年8月に行われたソウルオリンピックの野球(公開競技)日本代表に選出され、野茂英雄潮崎哲也らとバッテリーを組む。決勝戦でアメリカに敗れたものの、銀メダル獲得に貢献した。
1989年、古田のプレーに惚れ込んだヤクルトスカウト部長の片岡宏雄がトヨタを訪れて獲得の意思を本人に伝えた際、古田は「本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と何度も聞き直した。片岡は「スカウトに面と向かって『嘘じゃないでしょうね』なんて。まさに捕手の性格。しかも堂々と言った。相当なもんだと思ったね」と後に語っており、古田に二度惚れし、眼鏡で尻込みする現場の声を抑え込んだという〔。ヤクルトは同年のドラフト会議で古田を2位指名したが、監督に就任したばかりの野村克也は当初「眼鏡をしているが、ホンマに大丈夫なんか?」と不安を隠せなかったと言われている。野村がドラフト会場で直前になって「古田(の指名)はやめよう。捕手はワシが育てる」と発言した際には、片岡は「古田との約束を破ることになるのでそれはできない」と喰い下がった〔TBSで放送されたZONEにて告白〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「古田敦也」の詳細全文を読む




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