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加藤泰 : ミニ英和和英辞書
加藤泰[かとう たい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [たい]
 【名詞】 1. Thailand  

加藤泰 : ウィキペディア日本語版
加藤泰[かとう たい]
加藤 泰(かとう たい、1916年8月24日 - 1985年6月17日)は、日本映画監督脚本家時代劇任侠映画の名監督として活躍。代表作に『沓掛時次郎 遊侠一匹』、『瞼の母』、『明治侠客伝 三代目襲名』、『源氏九郎颯爽記』シリーズ、『緋牡丹博徒シリーズ』、『江戸川乱歩の陰獣』がある。また、テレビドラマなどで脚本も手掛けた。
== 来歴・人物 ==
兵庫県神戸市生まれ〔『日本映画テレビ監督全集』、キネマ旬報社、1988年、505頁〕〔(リュミエール叢書19) 加藤泰『加藤泰、映画を語る』、山根貞男・安井嘉雄編、筑摩書房、1994年、7-8頁〕、貿易商だった父の郷里・愛知県名古屋市育ち〔〔〔映画の國 || コラム ||名古屋のマキノ 〕。母方の叔父に映画監督の山中貞雄がいる。
愛知県立工業学校機械科を2年で中退し、いったん京都の貿易会社に入るが、映画への情熱さめやらず、山中を頼り上京〔。1937年東宝撮影所に入社した。八木保太郎に師事し、理研科学映画満州映画協会を八木とともに転々とし、記録映画を作る。
1946年、帰国。大映京都撮影所の助監督部に入社し、少年時代映画のとりことなるきっかけを作った伊藤大輔監督作品につくこととなる。また、黒澤明監督『羅生門』では、印象的な予告編を手掛けている。しかし、大映の組合書記長を務めたことでレッド・パージの対象となり同社を解雇され、独立プロの宝プロダクションに転職。1951年に時代劇『剣難女難』で劇映画デビューする。
1956年東映京都撮影所に移籍し、白塗りのスターが活躍するのが主流だった時代に、あえて主要キャストがノーメイクで出演する『風と女と旅鴉』、長谷川伸の名作を甦らせた『瞼の母』、そしてミュージカルやSF、リアルタイムの時代批判などさまざまな要素を詰め込んで「東映時代劇のヌーヴェルヴァーグ」と絶賛された異色作『真田風雲録』など、東映の看板スターだった中村錦之助と組んで数々の作品を監督する。
東映が集団抗争時代劇から任侠路線へと移行する時期には、タイトルが加藤泰自身の代名詞ともなる『沓掛時次郎 遊侠一匹』をものにし、新選組内部の抗争を描いたリアリズム時代劇『幕末残酷物語』などを撮り、そして、やくざの生きざまを独特の美意識と叙情で描いてその後の任侠映画に多大な影響を与えた『明治侠客伝 三代目襲名』を監督する。
その創作活動は1967年から1970年にピークを迎え、藤純子主演の『緋牡丹博徒シリーズ』では、シリーズ中屈指の傑作である『緋牡丹博徒 お竜参上』など3本を監督し、安藤昇を主演に迎え『男の顔は履歴書』や『懲役十八年』などのアクション映画を成功させ、大映の任侠スターだった江波杏子を東映に迎えて一種異様な怨念に彩られた復讐物語『昭和おんな博徒』を手掛けた、更に野村芳太郎山田洋次松竹の映画監督たちとの交流から、佐藤允が復讐の連続殺人鬼を演じる異色サスペンス『みな殺しの霊歌』を監督した。
1970年代には松竹で大作シリーズ『宮本武蔵』『人生劇場』『花と龍』のほか、カルト映画の傑作とされる『江戸川乱歩の陰獣』を、東宝で『日本侠花伝』と『炎のごとく』を監督した以外は、水戸黄門大岡越前をはじめとする、テレビ時代劇の脚本が中心となる。1981年、佐渡の鬼太鼓座メンバーの若さと情熱を描いて「究極のドキュメンタリー」を目指した『ざ・鬼太鼓座』を監督。加藤にとっては満映以来の記録映画であり、同時に彼の遺作ともなったが、この作品は制作会社の事情により加藤の生前に日の目を見ることはなく、1994年ユーロスペースで開催された特集上映「加藤泰 男と女、情感の美学」で初公開された。
極端なまでのローアングルクローズアップを特徴とする独自な映像スタイルは、加藤泰映画の代名詞として知られている。ローアングルについてはアスファルト舗装されている公道を掘り返してカメラを据え、電線が写った際には「電線を切れ」と言ったという凝り性。また、走る列車をその下からとらえた映像は、伝説化している。
晩年は、叔父・山中貞雄の業績をまとめるなど日本映画関係の著書を多数残している。次回作として井原西鶴原作の『好色五人女』映画化のシナリオ作業に取りかかるが、1985年に急逝した。
その独自のスタイルを貫いた映画は、死後も多くの映画ファンや評論家に絶賛され、特集上映もしばしば開催されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「加藤泰」の詳細全文を読む




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