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加模西葛杜加国風説考 : ミニ英和和英辞書
加模西葛杜加国風説考[か]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [も]
  1. (pref) imitation 2. copy 3. mock 4. replacement
西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
: [くず]
 【名詞】 1. (Japanese) arrowroot 
: [くに]
 【名詞】 1. country 
国風 : [こくふう]
 【名詞】 1. (1) national customs and manners 2. (2) provincial song or ballad
: [ふう, かぜ]
  1. (adj-na,n,n-suf) method 2. manner 3. way 
風説 : [ふうせつ]
  1. (n,vs) rumor 2. rumour 3. gossip 4. hearsay
: [せつ]
  1. (n,n-suf) theory 

加模西葛杜加国風説考 ( リダイレクト:赤蝦夷風説考 ) : ウィキペディア日本語版
赤蝦夷風説考[あかえぞふうせつこう]
赤蝦夷風説考』(あかえぞふうせつこう)は、江戸時代中期の医師・経世家経済学者)である工藤平助が著したロシア研究書。「赤蝦夷」はロシア人を意味する当時の用語。天明初年(1781年)ごろの刊行(上巻序文には「天明三年癸卯正月日」とある)。上下2巻。写本の中には『加摸西葛杜加(カムチャトカ)国風説考』の書名を持つものがあり(むしろこちらの方が多い)、また「魯西亜略説」などの異名もある。またのちに最上徳内が『別本赤蝦夷風説考』という書を著しているが、内容は全くの別物である。
==執筆の背景==
ロシア帝国の東方拡大は17世紀中頃から加速し、かなり早い段階でシベリア満洲近辺まで到達していたが、との間に結ばれたネルチンスク条約により、いったん勢いが止められた。ロシアは矛先を変えて北方に進出し、東シベリアをさらに進んで、17世紀中にはカムチャツカ半島の領有を宣言。現地に居住するアイヌ民族などとの間で交易やトラブルを起こしつつあった。
ロシアは日本との接触に備え、ピョートル大帝宝永2年(1705年)、首都サンクトペテルブルクに日本からの漂流民を招いて日本語学校を設立。1739年にはヴィトゥス・ベーリング探検隊の分遣船団が仙台湾房総半島沖に接近した(元文の黒船)。宝暦3年(1753年)には日本語学校の日本人教授を大幅に増やしてイルクーツクに移転し、来るべき日本との交渉に備えていた。エカテリーナ2世の治世には、ついにロシア船は択捉島国後島、さらに厚岸にまで到達する。ロシア人たちは、アイヌに対して毛皮などに重税を課した。すでに日本の活発な経済活動に苦慮していたアイヌは、一部がこの新たな負担に耐え切れずに南下し、松前藩などに逃げ込み、ロシア人の活動状況を報告した。
一方、日本側ではアイヌとの交易権を独占していた松前藩が、既得権益確保のため、蝦夷地以北へ日本人が渡航することを様々な手段で阻害していたため、蝦夷地に関する調査・研究が遅れていた。
このような状況の下、仙台藩の藩医であった工藤平助は、オランダ語通詞吉雄耕牛蘭学前野良沢らと親交を持ち、北方海防の重要性を世に問うべく、本書を上梓した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「赤蝦夷風説考」の詳細全文を読む




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