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京阪グラウンド : ミニ英和和英辞書
京阪グラウンド[けいはんぐらうんど]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みやこ, きょう, けい]
 【名詞】 1. capital 2. metropolis
京阪 : [けいはん]
 【名詞】 1. Kyoto-Osaka 

京阪グラウンド : ウィキペディア日本語版
京阪グラウンド[けいはんぐらうんど]

京阪グラウンド(けいはんグラウンド)とはかつて大阪府寝屋川市(開設当時は北河内郡豊野村)に存在したスポーツ施設である。京阪電気鉄道によって建設・運営されていた。所在地から寝屋川グラウンド(野球場については「寝屋川球場」)とも呼ばれた。
== 概要 ==

京阪電気鉄道1921年に沿線の豊野村に1万5千坪の土地を入手し、翌1922年1月から陸上競技場の建設に着手。同年4月21日に竣工した。400mのトラックのほか、100mの直線コース、200mのセパレートコースからなる本格的なものであった。京阪では利用者の利便を図るため、完成に先立って3月23日に臨時駅の運動場前駅を開業している〔寝屋川市のウェブサイト(寝屋川市の歴史 )には、駅の開業当時は「グラウンド前」という名前であったという記述があるが、京阪の社史『鉄路五十年』(1960年)や『京阪70年のあゆみ』(1980年)ではいずれも開業当時より運動場前駅であったと記している。〕。引き続き5月から野球場テニスコートに着工し、8月末に完成した。建設に際しては、大阪朝日新聞運動部が協力した。また、11月12日から運動場前駅は常設駅に昇格した。
陸上競技場は竣工翌日からこけら落としとして朝日新聞社主催の第3回東西対抗競技大会関西予選大会を開催、その後は陸上競技のほかサッカーラグビーの試合にも使用された。
野球場は大学や実業団(京阪自身もチームを保有していた)の公式戦や練習戦に使用された〔京阪電鉄野球部の著名な在籍者としては、在籍当時は同社社員でもあった二出川延明がいる(山本暢俊『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』彩流社、2007年、P68)。〕。1923年11月には、日本最初のプロ野球団である芝浦協会が実業団の大毎野球団と対戦した試合も行われている。1924年からは全国中等学校優勝野球大会大阪大会の会場ともなっている。しかし、同年に本格的な設備を備えた阪神甲子園球場が完成すると、京阪は球場のあり方を真剣に検討せざるを得なくなった。
その中で、京阪グラウンド球場を改装の上で、この年から始まった選抜中等学校野球大会を誘致する計画が持ち上がった。京阪は大会を主催する大阪毎日新聞(以下、大毎と略記)に計画を持ち込んだところ、大毎側も乗り気で大いに協力するという反応を得る。京阪は改装の参考として、新京阪線の京都地下線建設に関する調査のために渡米した大林組の技術者に、ヤンキー・スタジアムなど米国の球場施設の調査を依頼した。帰国した技術者から提供された写真や資料をもとに、大毎とも協議して、改装の設計図を作成した。この設計図を見た社長の太田光凞や運輸課長は賛意を示し、京阪・大毎両社の首脳が正式に会談する運びとなる〔『鉄路五十年』には太田に設計図を見せたのは社長就任(1925年4月24日)直後とあるため、時期的には1925年の4~5月頃と推定される。〕。大毎側は球場の完成に協力し、完成後は選抜大会を開催することで合意した。さらに、京阪グラウンドにスポーツ指導者の養成施設を設ける将来構想も両者間で示された。
しかし、運輸課から「春は行楽客の輸送で手一杯であり、新たに車両を増やさなければ責任ある輸送はできない」との見解が示された。本格的な球場への改装についても、運輸本業での建物拡張がたけなわという状況があった。太田社長は球場整備案と車両建造案とを合わせて役員会に諮ったが、経費の点で反対意見が強く、球場整備だけでは輸送確保に支障を生じることから、当面拡充整備は見送ることとなった。その後京阪は新京阪鉄道をはじめとする鉄道業での過剰投資を回収できないまま昭和恐慌に見舞われてその後処理に追われることとなり、改装計画も日の目を見ることはなかった。
京阪グラウンドはその後もスポーツ施設として利用された。1927年11月6日には、春夏の中等学校野球大会の優勝校(春は和歌山中学、夏は高松商業)同士による「日本一決定戦」の試合が行われている(7対4で高松商が勝利)。しかし、中等学校野球選手権大会大阪大会の会場としては1933年が最後となった〔『鉄路五十年』の本文(P164)には「昭和8年以降は藤井寺球場ばかりで開催されるようになった。」とあるが、同書の年表(P694)には昭和8年7月24日の項に第19回全国中等学校野球選手権大会大阪大会(第1班)を7月31日まで開催したという記述があるため、1933年とする。〕。その後、利用が低下したことから、太平洋戦争中の1942年6月23日に住宅営団に住宅地として売却された。これに伴い、運動場前駅は1943年1月20日に豊野駅に改称された(1963年廃止)。跡地は住宅地となっている。敷地の一角に当たる寝屋川市八坂町交差点の北東隅に、1990年に京阪から寝屋川市に寄贈された「寝屋川球場跡」の記念碑が建立されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「京阪グラウンド」の詳細全文を読む




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