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乾市郎平正厚 : ミニ英和和英辞書
乾市郎平正厚[けん, ほし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けん, ほし]
  1. (pref) dried 2. cured
: [し]
  1. (n-suf) city 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [あつ]
 (suf) thickness

乾市郎平正厚 ( リダイレクト:乾正厚 ) : ウィキペディア日本語版
乾正厚[いぬい まさひろ]
乾 正厚(いぬい まさひろ、生年未詳 - 明治3年5月22日1870年6月20日))は、土佐藩士。板垣退助家の分家乾左八正春の養子。幼名楠弥太。字は市郎平(いちろべい)。実は同藩士本山彦弥茂良の嫡男。家禄は28石8斗。妻は土佐藩士明神源八善秀の姉。本山只一郎の義弟にあたる。
== 来歴 ==

*ゆえあって片坂限西へ追放処分とされた、本山茂良(彦弥)の嫡男として生まれ、初名を「本山楠弥太」と称す。実弟に本山茂邁がいる。本山家の分家の本山茂養(伊平)に養育され、本山茂任(只一郎)の義兄弟として育つ。
*1830年文政13年)11月24日、実父本山茂良の実兄乾正春が病気で無嗣子のため、楠弥太が正春の養子となることを仰せ付けられる〔実父の本山茂良は、本名を乾右馬之助と言い、本山茂直(安之進)の養子となって本山家を継いだが、正厚の代でまた乾家に戻ってきたことになる。〕。
*1831年天保2年)3月28日、養父正春の跡目五人扶持切府高十石之内の七石を下し置かれ、格式新御扈従を仰せ付けられた。
*1839年(同10年)6月18日、当分敏衛様、郁松様(山内豊矩)附きを仰せ付けられる。
*1845年弘化2年)5月13日、当分登五郎様(山内豊樹)附きを仰せ付けられる。
*1863年文久3年)1月26日、江戸表の智鏡院様山内豊熈の夫人、候姫)〔島津斉彬の実妹〕御用を仰せ付けられる。
*八月十八日の政変の後、1864年(元治元年)5月13日京都で小目付役(小監察)御軍付御用仰せ付けられ、同時に尹宮様(中川宮朝彦親王)御用向御勤務を仰せ付けられ、白銀50枚を下された。
*同年7月17日長州兵の入京を阻止せんと薩摩藩吉井幸輔久留米藩大塚敬介らと議して連署の意見書を朝廷に建白し、その決意を求める(禁門の変)。
*1866年(慶応2年)6月に長防探索用を命ぜられ探索方として活躍する〔『明治維新人名辞典』の著者は、『御侍中先祖書系圖牒』を参照してい無いと思われ、「1866年慶応2年)6月以降消息不明となった」と書かれているが、『御侍中先祖書系圖牒』には、1868年明治元年)12月17日まで記載があり消息を辿ることが出来る。〕。
*1868年(同4年)3月13日、小目付役格式馬廻り仰せ付けられ、役料二人扶持十二石を下し置かれ、御軍備御用、文武調役仰せ付けられる。
*1868年(同年)12月17日、小目付役兼市之御用を共に御免となり役料を除き、格式御小性組を仰せ付けらる。
*正厚は無嗣子ゆえ板垣退助の次男乾正士を後嗣として家を継がしめた。遺骨は無いが墓は高知市一宮薊野にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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