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九条夙子 : ミニ英和和英辞書
九条夙子[きゅうじょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [く]
  1. (num) nine 
: [しゅく]
 【名詞】 1. bright and early 2. early in life 3. long ago 4. for a long time
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

九条夙子 ( リダイレクト:英照皇太后 ) : ウィキペディア日本語版
英照皇太后[えいしょうこうたいごう]

英照皇太后(えいしょうこうたいごう、天保5年12月13日1835年1月11日)〔天保4年11月13日1833年12月23日)誕生とする資料もあるが、これは誤り。皇太子統仁親王との婚姻時、親王との年齢差「中四つ」(3歳違い)を忌み嫌う風習があったので、一年早い天保4年を公式の生年としたのが真相である(小学館日本大百科全書:ニッポニカ』「英照皇太后」の項目、河内八郎執筆)。〕 - 明治30年(1897年1月11日)は、孝明天皇女御にして明治天皇の嫡母(実母ではない)。旧名、九条 夙子(くじょう あさこ)。
== 生涯 ==
父は九条尚忠、母は賀茂神社氏人・南大路長尹の娘・菅山。九条道孝の実姉、貞明皇后の伯母にあたる。名は初め「基君(のりきみ)」。
山城国愛宕郡下鴨村(現京都市左京区下鴨)の南大路家で誕生し、弘化2年(1845年9月14日、12歳の時に、3歳年上の東宮・統仁親王(のちの孝明天皇)の妃となる。結婚翌年には孝明天皇が即位し、嘉永元年(1848年12月7日従三位に叙され、同月15日に入内して女御宣下を被る。孝明天皇は夙子の立后を望んだが、先ず准三宮に叙すべしという幕府の反対にあい、嘉永6年(1853年5月7日、夙子は正三位・准三宮に上る。
嘉永3年(1850年)に第一皇女順子内親王(1850年 - 1852年)、安政5年(1858年)に第二皇女・富貴宮1858年 - 1859年)を生んだが、いずれも幼児期に夭折したため、万延元年(1860年7月10日勅令により中山慶子の生んだ第二皇子・祐宮睦仁親王(当時9歳、後の明治天皇)を「実子」と称した。
33歳で夫孝明天皇の急逝に遭い、明治天皇即位後の慶応4年(1868年3月18日皇太后に冊立。皇后を経ずして皇太后となった。東京奠都後、明治5年(1872年)、赤坂離宮に遷御、明治7年(1874年)に赤坂御用地に移る。
明治30年(1897年1月11日崩御享年64(満62歳没)。1月30日に「英照皇太后」の追号を奉られた。同年に大喪の記録として和装本『英照皇太后大喪記事』、『英照皇太后之御盛徳』、『英照皇太后陛下御大葬写真帖』が出されている。
御陵は京都市東山区今熊野の後月輪東北陵(のちのつきのわのとうほくのみささぎ)で、孝明帝と同所である。
なお、京都大宮御所は、彼女のために慶応3年(1867年)造営されたものである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「英照皇太后」の詳細全文を読む




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